その栄光と挫折
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1919年に創建され、完成しなかった竜煙鉄鉱股份有限公司の溶鉱炉(首都鉄鋼提供) |
首都鉄鋼の前身は石景山鉄鋼廠である。1919年、北洋政府の時期に創設され、それが現在の製鉄所になった。しかし設立から30年間で、断続的に累計28万6000トンの銑鉄を生産したに過ぎない。
1949年、新中国が成立したとき、北京は消費型の都市であった。このころの北京の工業は、いくつかの小型のガラス工場やマッチ工場しかなく、大型の工業は基本的に何もなかった。
経済を迅速に発展させ、人民の生活を改善するために、北京は郊外に工業の企業を集中的に発展させた。1950年代末までに北京はとりあえず、東の郊外に綿紡績区を、東北の郊外に電子工業区を、東南の郊外に機械・化学工業区を、西の郊外に冶金・機械重工業区を、それぞれつくりあげた。
首都鉄鋼は西郊の石景山区にある。石景山という山が首都鉄鋼の構内にあり、ここから石景山区と呼ばれるようになった。
こうした背景の下で、首都鉄鋼は急速に発展し、北京の工業発展を示す一つの標識となった。
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1958年8月、首都鉄鋼の前身である石景山鉄鋼廠で最初のインゴットが生産され、「鋼がつくれない」歴史に終止符を打った(首都鉄鋼提供) |
1958年、首都鉄鋼は最初のサイド・ブロー転炉を建設し、「鉄はつくれるが鋼鉄はつくれない」という首都鉄鋼の歴史に終止符を打った。1964年には、さらに中国で初めての酸素トップ・ブロー転炉を建設した。1978年には、首都鉄鋼の年間鉄鋼生産量は179万トンに達し、中国の八大鉄鋼企業の中に名を連ねるようになった。
1970年代末、中国は改革・開放政策を実行し始めた。この時から首都鉄鋼は絶えず大規模な技術改造と建設を進めた。例えば首都鉄鋼の2号高炉は移転して大幅に改造され、高炉内で粉炭を吹き付けるなどの37項目の内外の新技術を採用し、中国第一の近代的な高炉となった。
同時に、国有企業の中で率先して、請負責任制を実行した。それは、国に利潤を上納した後、残った利潤を「6対2対2」の比率で分配し、60%は企業の再生産に使い、20%は労働者のボーナスとし、20%を労働者の福祉基金に残しておく、というやり方である。こうした措置によって、労働者の仕事の環境や生活水準は大いに改善され、首都鉄鋼は中国の鉄鋼労働者の憧れの的となった。
1994年には、首都鉄鋼の鉄鋼生産量は824万トンに達し、その年の全国第一位となった。
しかし、その後の10年間、首都鉄鋼の鉄鋼生産量はずっと800万トン前後を低迷し、全国のランキングも年を追って後退した。しかし上海の宝鋼は、後発ながら成績がよく、鉄鋼生産量はすでに2000万トンを突破し、世界第6位に躍り出た。中国の大鉄鋼企業がみな1000万トンの大台に向け邁進しているころ、首都鉄鋼は石景山区にこもって、引き続き鉄鋼を生産するのが難しくなっていた。
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修復中の碧霞元君殿。首都鉄鋼内にある石景山には、いまなお寺や廟などの古跡が保存されている。(写真=魯忠民) |
当初、北京に新たに建設された工業企業の大多数は、市街地から遠く離れていたが、北京市街の中心区域が拡大発展するにつれ、こうした企業はみな市街地の中に入ってしまった。首都の機能と工業生産の矛盾はますます大きくなり、工業の構造調整を進めなければならなくなったのである。首都鉄鋼は自然に、人々の関心の的となり、議論の焦点となった。
90年代から、北京の工業企業の多くは次々に市街地から出て行き始めた。首都鉄鋼は、中国の鉄鋼業の発祥地であり、重要な生産基地の一つで、北京の発展に大きく貢献してきたので、これほどの特大企業の移転は容易なことではない。しかし、もし首都鉄鋼が北京に居続けるなら、中国のほかの鉄鋼企業との格差はますます大きくなり、ついには置き去りにされてしまうだろう。引っ越すか、引っ越さないか、首都鉄鋼の人々は、苦渋の選択を迫られた。
首都鉄鋼集団の朱継民董事長(理事長)は、中国の鉄鋼企業家の中で、政策決定が大胆で、果断に事を行なうことで有名である。その朱董事長は首都鉄鋼の従業員大会で「座して死を待つより、自ら進んで出撃する方がよい」と提案した。企業の将来のために、首都鉄鋼は管理職から普通の労働者まで、ここを出て新天地を切り拓こうという共通認識に達したのである。
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