希望がある限り全力を尽くす
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5月16日、北川県へ赴いて、現地の救援活動を指導する胡錦濤国家主席。医療スタッフに対して地震で母親を亡くした羅夢夕ちゃん(3歳)の面倒をよく見るように話した |
四川汶川大地震は全中国を震撼させた。党中央と国務院(政府)はこれを非常に重く見た。胡錦濤国家主席は迅速に指示を出し、できる限り速く負傷者を救助し、被災地の人民大衆の生命と安全を確保せよ、と求めた。国務院に「抗震救災指揮部」が設立され、温家宝総理が自ら総指揮に就任した。民政部(省)、交通運輸部、衛生部などの多くの部や委員会がメンバーとなった。
被災状況の深刻さが、胡錦濤主席の胸に響いた。全国の地震災害救援活動を指揮するとともに、5月16日、胡錦濤主席は自ら四川省の被災地に赴いた。救援活動を指揮しながら胡錦濤主席は「救援活動は必ず各村々まで行って行わなければなりません。道路が塞がれれば、水路を通って行く。道路も水路も通じなくなったら、両足を使って村へ行かなければなりません」と述べた。
擂鼓鎮は北川県の中でもっとも被害がひどい鎮の一つである。擂鼓鎮に入った胡錦濤主席は、瓦礫を踏んで、崩壊した家屋の前に行き、細かく視察し、死傷の状況や収容状況を人々に尋ねた。胡錦濤主席はさらに、テントの中に入り、被災地の人々の手を握って、生活面でなにか困難はないかどうかと尋ねた。
胡錦濤主席は人々に向かってこう述べた。「ひどい災害を前にして、我々は粘り強く、自信と勇気を持っていなければなりません。我々は必ず全力を尽くして辛い目にあっている人々を救援し、全力を尽くしてケガをした人々を治療し、全力を尽くして被災地の人々が生活できるよう、取り計らわなければなりません」
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5月12日夜、温家宝総理は都江堰市の崩壊した病院に足を運び、瓦礫の中に埋もれた生存者を励ました |
一方、「抗震救災指揮部」の総指揮となった温家宝総理は、地震発生四時間後には被災地に到着した。マグニチュード8という地震の規模は、1976年の唐山地震以来、もっとも大きく、破壊力がもっとも強かった。今年の初めには、中国の南部で広範囲にわたる降雨・降雪・氷結による災害が発生したが、そのときも温家宝総理は各地を奔走し、被災の情況を実地調査し、被災者の救援を指揮した。南方の災害はやっと回復したばかりなのに、再び温家宝総理は大地震に心を砕かなければならなくなったのである。被災地の多くの人々は、総理がこんなに早く、自分たちの目の前に現れるとは思いもよらなかった。
被災状況は深刻であり、無数の人々の生命が死の危険にさらされていた。温家宝総理は速やかに被災地に赴いた。空港へ向かう途中で、随行の人と四川省の地図を開き、震災救援の仕事を検討した。飛行機が成都に到着すると、彼らは余震や山崩れの危険を冒して、自動車で地震の中心地へ向かった。しかし、地震の破壊力が非常に大きかったため、道路は山から転がり落ちた多くの岩石に塞がれ、通ることができなかった。やむをえずに自動車は都江堰市に停まった。彼らはその地でテントを張り、「抗震救災指揮部」を設立し、救援活動を統一して計画した。
5月12日の夜、四川省都江堰市聚源鎮中学校の救援現場で、温総理は大声で人々にこう語った。「一縷の希望さえあれば、百倍の努力を尽くさなければいけない。決してゆるがせにしてはならない」
都江堰市は地震の中心地の汶川県からわずか50キロしか離れていない。数時間前、地震でここの多くの家屋は倒壊し、数え切れない人々がその下敷きとなった。
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5月22日、胡錦濤国家主席は浙江省湖州市へ赴いて救済テントの生産状況を視察した |
都江堰市から德陽市、北川県、さらに汶川県まで、温家宝総理は常に震災救援活動の最前線に立った。彼は救援部隊のいるいかなる所へも行き、震災救援活動を指揮しながら、被災者を見舞った。
北川県では、温家宝総理は「がんばろう」と被災者を励まし、「あなたがたの苦痛は私たちの苦痛でもある。あなたがたが肉親を失ったことに対して、私も同じように悲しく思っている」と言った。救援現場では、一回の救出活動が失敗した後、温家宝総理は雨の中、瓦礫の上に立って、救援を指揮しつづけた。誤って滑って転んでしまい、腕をケガしたが、傷口に包帯も巻かずに、指揮を続けた。
綿陽市の九州体育館で孤児となってしまった子どもたちを見舞ったとき、温家宝総理はこらえきれずに涙をこぼした。「これは自然災害なのです。あなたたちは幸い生き残ったのだから、しっかり生きていかなければならないよ。政府は必ずあなたたちの面倒をみます」と、子どもを慰めた。
青川県の木魚鎮で、中学校3年生の王雲霄さんは泣きながら温家宝総理に訴えた。「両親は地震でケガをし、兄は瓦礫の下に埋まってしまい、まったく消息がありません。家も壊れました。学校へも行けなくなりました」。温総理は王さんを抱きかかえ、こう言った。「壊れた家は再建できます。食べ物がなかったら、すぐ届けてくれます。人間が生きてさえいれば、家を立派に再建することができますよ」
地震が起こった後の数日の間に、胡錦濤主席と温家宝総理は「今回の災害との闘いに、政府は自信をもっている」ということを行動で被災者に示した。
続々と届く救援の手
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5月14日、救助に向かうために茂県の上空から降下するパラシュート兵たち(写真・PhotoBase) |
国家総理の一挙一動は政府の行動を代表している。地震の発生後、中央政府はただちに国家の「一級救災緊急措置」を発動し、3日間の内に、22億4000万元の羅災者救済資金を支出した。
地震だと確認された後の30分以内に、中国の民政部は救援活動を組織した。
地震発生後、被災地の通信設備は破壊され、四川への電話は全部途絶した。民政部はさっそく汶川県に近い西安市から5000張りのテントを調達して、被災地に運び、続いて各地から各種の救援物資を調達して被災地に運んだ。5月15日までに、民政部は地震の被災地にテント12万7000張り、布団22万枚、綿入れ服17万着を調達し、これら物資を有効に配分した。これで被災地の民衆の生活が保障された。
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5月13日、都江堰市の聚源中学校の校舎の中から女の子が救い出された(写真・IC) |
地震の当日の午後、地震の専門家、医師や看護師、救援人員など各種の人員計214人からなった第一陣の専門家救援チームが、先進的な救援設備や薬品を携えて被災地に到着し、救災の仕事を指導するようになった。
13日に、国家地震救援隊や四川、甘粛、陝西、雲南など各省の地震局の専門官も相次いで被災地に到達した。被災地の道路は寸断されていたので、救援活動はとても困難だったが、救援隊はその日に、多くの人々を救い出した。
被災地には多くの負傷者が応急手当を待ち、医師や看護師と薬品がすぐに必要だった。地震の当日の夜、衛生部は急いで700人以上の医療専門家チームを組織し、そして全国から6000ccの血漿(一人で200ccを献血)を調達した。医療人員と血漿は13日午前に、四川省に到着した。
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5月15日、解放軍の兵士たちは、汶川県映秀鎮から都江堰市までの区間を大型の水上輸送船を使って被災者を運んだ |
さらに、重慶市や、河北、山西、陝西など各省と軍の病院の医師や看護師は、それぞれ医療チームを組織して、続々と被災地に到着した。5月15日までに、四川省の被災地にいる医師や看護師は3万人に達し、応急手当をして救った傷病者は6万人を上回った。被災地では多くの医療関係者が徹夜で働き、10人前後の医療チームは1日200人以上のケガ人を治療した。
このほか、交通運輸部、財政部、教育部などの部や委員会も地震発生後、すぐに応急的なシステムを設立し、人力や物力を調達して、被災地を支援した。
地震発生後、メディアもすばやく行動した。政府はすぐにメディアを通じて民衆に地震の状況を知らせた。多くのメディアは汶川県に焦点をあわせ、テレビ局は24時間、地震の救援状況を生中継し、各ネットメディアも絶えずページを更新し、新しい状況をリアルタイムで報道した。情報の流れがスムーズなので、人々は直ちに災害の情況を知ることができたし、政府が社会の力を組織して被災地を支援するのにも役立った。
解放軍を見て、やっと安心できた
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5月15日、救援隊員たちは汶川県映秀鎮で救出した負傷者を担いで都江堰市まで運んだ(写真・IC) |
5月14日午前11時24分、一機の大型輸送機が成都を離陸し、被災状況がもっとも深刻な地域の一つである茂県へ向かった。通信、道路ともに断絶した茂県は、ずっと外部との連絡が取れないままなので、軍の総指揮部は落下傘部隊を派遣することを決定した。この輸送機は百名のパラシュート兵を載せて、茂県の上空に到達した。
茂県の地形は高山と峡谷からなっており、県内にある山の高さはほとんど4000メートル以上である。また、被災地の状況が不明なうえに、地面に標識や誘導もなかったので、今回の降下は命にかかわるほど非常に危険なものだった。それでも午前11時47分、15名の兵士が少しもためらわず、4900メートル以上の高空から降下した。しばらくすると、彼らから報告があった。「地面の状況が複雑なので、大部隊の降下は難しい」。
そこで、総指揮部は今回の降下計画を取りやめた。しかし15名の兵士は無事着陸してから、直ちに茂県の人と連絡を取り、現地の被災状況を報告したので、救援活動の手配がうまくいった。
地震の被災地には、この15名のパラシュート兵のような勇敢に救援活動を続けている将兵がまだ大勢いる。被災状況が深刻なので、党中央は被災地へ緊急派遣する部隊を編成した。3日間のうちに、救援活動に投入された将兵は10万近くに達する。救援活動の最前線で活躍している解放軍の将兵たちは、道を拓いたり、物資を運んだり、埋められている人を救出したりしてた。危険なところには必ず、将兵の姿があった。
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5月13日、成都軍区の空軍駐成都部隊は暴雨の中、彭州市の負傷者を大急ぎで運んだ(写真・劉応華) |
震央である汶川県は、標高1300メートルの山地にある。地震の影響で、汶川県の道路は、寸断されたり、崩れたりした個所が多い。また、通信が途絶し、汶川県は「陸の孤島」となった。現地の救援隊が十分な土木機械を調達したものの、狭い山道には二台の機械しか同時に作業ができなかった。道の崩壊もひどく、最大のところでは2万立方メートルもある砂利が道を塞いでいたので、救援隊員たちはこれを爆破して道を拓かざるを得なかった。汶川県へ進むのは、非常に難しいことであった。
落下傘部隊の派遣が大雨のため取りやめになった後、武装警察のある部隊の200人が、船で水路を進んだ。彼らは汶川県付近に上陸してから、徒歩で70キロを急行した。13日午後11時15分に、ようやく汶川県に到達し、直ちに現地の被災状況を報告した。翌日の未明までに、後続部隊が相次いで到達し、その日に千人あまりの被災者を救出した。「軍人さんの姿を見て、やっと安心しました」と現地の人々は言っている。
北川県では、兵士たちが県城に入ると、雨と風の音に混じって泣き声や助けを呼ぶ声が県城に溢れていた。兵士たちは最大の努力をし、素早く生存者を運び出し、また埋められている人の救出に戻った。兵士の毛五韜さんは「当時は道がなかったから、一人を運び出すには、12人の兵士がいっしょに作業する必要があった。こうして、私たちは百人以上の被災者を運び出した。兵士たちは歯を食いしばって救援活動を続け、退却する者は一人もなかった」と語った。
また、パイロットの付潤傑さんは13日の午前6時から被災地への空輸の任務に就き、40余時間のうちに8回も飛行し、休憩の時間は五時間もなかった。それでも彼は、飛行任務の一番厳しいパイロットではなかった。
救援活動に参加した将兵には、実家が被災地にある人が大勢いた。パラシュート兵の任涛さんは、おばあさんが地震の中で亡くなり、義理の母も重傷を負ったが、実家を通りかかった彼は一度も家に寄らなかった。家が汶川県にある成都軍区のある団長の余志栄さんは、毎日、体力の限界を超えるほど飛行をし、分秒を争って被災者に物資を届けたが、自分の家族と連絡できなくなってしまった。救援活動の中で、余震がたびたび発生し、一部の将兵は若い命を失い、あるいは負傷した。これは心の痛むことである。
5月15日、救援部隊は四川省の被災状況がもっとも深刻な58の郷鎮(町)のすべてに入った。将兵たちの努力によって、多くの物資が被災地へ投下され、大勢の被災者が無事、救出された。5月17日まで、解放軍と武装警察部隊は瓦礫の下から2万1566人を救出し、3万4051人の負傷者を手当てした。彼らは救援活動に大きく貢献したのである。(0806)
人民中国インターネット版 2008年7月
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