ふいに四川省を襲った大地震は、一瞬にして現地に暮らす人々に多大な損失と苦難をもたらした。そんな悲劇の中にも、この大災難に直面して天災と闘う被災地の人々の間には、数々の心を揺さぶってやまない同胞愛の物語があった。
四人の生徒を助けた先生
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5月19日に撮影した綿竹市黄金鎮の避難テント |
5月13日午後11時50分、冷たい雨の降り続く徳陽市漢旺鎮の黒い空を切り裂くように、救急車のサイレンが鳴り響いた。その救急車で運ばれていたのは、倒壊した東汽中学の建物から救出された4人の生徒であった。
「そのうちの一人が私の姪です。もしも譚先生が身を挺してかばってくれていなかったら、この4人の子どもたちは生きてはいなかったでしょう」と、助かった女子生徒、劉紅麗さんの叔父は目を潤ませながら言った。
「彼こそ本物の英雄です!」
譚先生とは、学校の教務主任であった50歳の譚千秋先生のことである。「発見されたとき、彼は両腕を大きく広げ、机の上にうつ伏せたような姿でした。彼の体の下にいた4人の生徒は全員無事でしたが、譚先生は頭を打たれ、残念ながら亡くなりました」と、ある救助隊員が現場の様子を振り返る。
学校の運動場では、譚先生の妻である張関蓉さんが、夫の顔についた土を丁寧にぬぐい、乱れた髪を整えていた。「あの日、主人はいつものように6時に起きて、娘の洗顔や着替えを手伝ってから、早々と学校に出かけていきました。まさかそのまま帰らぬ人になってしまうなんて。娘はまだ家でパパの帰りを待っているんです」
そういってすすり泣く張さんの言葉は、もはや声にならなかった。
その場にいた生徒の親たちは、現地の風習にのっとって爆竹を鳴らし、譚先生の安らかなる眠りを祈った。
頼む、もう一人助けたいんだ
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5月15日、廃墟と化した北川県の旧市街区(写真・IC) |
地震発生後、綿竹市の学校の校舎は大部分が倒壊した。授業中の百数名の小学生が崩れ落ちた瓦礫の下に閉じ込められた。消防士たちは分秒を争って瓦礫の中の生存者を捜索した。十数人の子どもが救出された。
緊迫した救助活動が進められる中、突然余震が発生し、残りの校舎も倒壊する危険につねにさらされていた。そんな状況の中で、救助活動を行うのは自ら死を招くに等しい危険な行為であった。消防隊を指揮する人は瓦礫の中にもぐりこんだ人々に、すぐに撤退し、状況が安定してからあらためて入るよう命じた。
そのとき、瓦礫の中から出てきたばかりの隊員が、子どもを見つけた、と叫んだ。それを耳にした隊員たちが再び中に入ろうとしたところ、倒壊が起こり、巨大なコンクリートの塊が落下してきた。瓦礫の中に向かって走り出していた隊員を他の隊員たちが必死に押しとどめ、安全な場所まで引きずっていった。瓦礫の中から子どもを救出したばかりの一人の隊員が、地面に跪いて激しく泣きながら、自分を押しとどめる人たちに向かって叫んだ。
「いかせてくれ。頼む! もう一人助けたいんだ!」
この光景を見て、周囲の人はみな涙を流した。しかし、誰もがなすすべもなく、二回目の倒壊をただ見ていることしかできなかった。その後、子どもたちが数人、瓦礫の中から掘り出されたが、生存者は女の子一人だけだった。その子を抱いた若い隊員は、雨の中を叫びながら救援テントに走った。
瓦礫の下の歌声
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北川県で被災した男の子を慰めるカウンセラー(右) |
綿陽市中心病院のベッドに横たわっている李安寧さん(16歳)は、左足を骨折し、治療を受けている。「大丈夫です。痛みは怖くありません」 穏やかな女子生徒の顔には、苦痛の表情はうかがえず、医者に微笑みを向ける。10時間にわたって瓦礫の中に閉じ込められていたにもかかわらず。
地震が起こった瞬間、北川中学(日本の中学校と高校に相当)の高校一年生の李さんは、4階の教室で授業を受けていた。突然、教室が激しく揺れ動き、20秒も経たないうちに校舎が崩れ落ちた。目の前が真っ暗になり、崩れ落ちた壁や粉々の破片に押しつぶされ、身動きができなくなった。
「かすかな光があって、座った姿勢のままのクラスメートの李遠峰さんの姿が見えました。私は彼の手を握って名前を呼びましたが、まったく反応がありませんでした。暖かかった手が、そのうちに冷たくなってしまいました」と李さんはそのときのことを振り返る。引き続き大声でクラスメートの名前を呼んだ。いつも仲良しの女子生徒3人がすぐそばに横たわっていたが、みんな死んでしまっていた。
どれくらい時間がたったかわからないが、気がつくと数人のクラスメートが「私たちはなんとしても脱出するんだ。頑張ろう」と次々に声をあげていた。続いて、誰かがリードしてみんなで歌を歌い始めた。みんなで声を揃えて流行歌をたくさん歌った。中でも一番はっきりと覚えているのは『童話』という歌だという。その歌の歌詞には「幸せと楽しみがエンディング」というフレーズがあるからだ。
死に直面しても、責任を選ぶ
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揺れが激しかった南充市のある病院は、新生児を安全な場所へ運んだ |
5月12日正午12時、都江堰市人民病院の麻酔師の陳峰さんと彼の所属する手術チームは手術室に入り、盲腸の手術に取りかかっていた。手術中の午後2時半、突然激しい振動に襲われた。手術室は激しく揺れ動き、業務用の大型エアコンが倒れた。
過去に二度地震を経験したことのある陳峰さんは、「地震だ。あそこなら安全だ」と、ドアの方向を指さしながら叫んだ。7名のスタッフは手術室のドアに駆け寄り、ドアのかまちにしっかりとしがみついた。恐ろしい揺れが収まると、陳峰さんはみんなの目の中の緊張を見て取ったが、小さな声で「続けよう」と言った。反対する人はだれもいなかった。こうして一時的に中断していた手術を再開した。
しばらくして、再び激しい揺れに襲われた。彼らは今度もドアの方に集まり、かまちにしがみついた。揺れがおさまると、再び手術を再開した。「みんながついていますから、安心してください」と陳峰さんは患者にそっと声をかけて安心させた。余震が襲ったときだけはしばらく中断されたが、手術はいつものように整然と進められていた。午後3時、手術は無事に終わった。みんなで患者を病院の外まで運びだした。
「そのときになって初めて、全身が汗でびっしょりになっていたことに気づきました」と、陳峰さんはそのときの思いを語る。「あのような状況でも、誰も逃げ出したりしません。私たちは患者を見捨てるようなことはありません」
天災は無情でも、人には情がある
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四川省江油市公安局の女性警官蒋暁娟さんは、地震によって孤児となった赤ちゃんに母乳を与えた |
成都市では、千名以上のタクシードライバーが自発的に付近の被災した県や市へ駆けつけた。彼らは現地の人々に救援物資を届け、さらに負傷者を成都へと運んだ。
江油市の女性警官である蒋暁娟さんは、地震発生後、まだ6カ月にもならない息子を両親に預け、全力で救助活動にあたった。被災者の中に、母乳を必要としている赤ん坊たちがいることがわかると、授乳してあげたいと自ら申し出た。「ゆっくり飲みなさい。いい子ね」と女性ならではの優しさと思いやりで、何も知らない赤ちゃんを優しくなだめた。地震発生後3日目にしてようやく母乳が飲めるようになった赤ん坊を見て、多くの被災者がほっとして感激の涙をこぼした。
綿竹市遵道鎮の韓先成さん(28歳)は、地震発生後すぐに自分の個人診療所の救急医薬品をすべて出した。災難を逃げ延びた重傷者は、彼のおかげで応急処置を受けることができた。 現地で布を販売している賀思萍さんは、危険をかえりみずいつでも倒壊する可能性のある店の中へ戻り、倉庫にあった布を死体を包めるようにと援助隊のもとへ届けた。残念ながら命を落としてしまった人々の最後の尊厳を守るためであった。
綿陽市でレストランを経営する何家の三兄弟は、毎日料理を街頭の被災者に無料で提供している。需要がある限り、ずっと続けていきたいという。
地震発生後まもなく、まだ驚きと恐怖のさめやらぬ被災地の多くの農民が、自分の家で作っている穀物や野菜、肉、卵、魚などを街まで運び、食べ物が不足している市民に配った。
こうした話に、四川省の李成雲・副省長は感激のあまり涙にむせんだ。被災地においてこうした心ある人々の行動は、枚挙にいとまがないほど、そして毎日のように現地で目にすることができる。(0806)
人民中国インターネット版 2008年7月
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