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国内外に支援の輪広がる

 

汶川の地震のニュースは、インターネット、テレビ、新聞などメディアを通して全土に迅速に伝えられた。災難は人々に大きなショックを与えたが、その一方で、これまでにないほど、中国の民衆を団結させた。八方から支援が集まり、無数の人々が実際の行動で被災地を支援し、国際社会からは援助の手が差し伸べられた。

 

 行くべきだ、何をためらう?

 

救助活動を行うために、山を越えて汶川県映秀鎮へ向かう医療・救助隊員たち(写真・CFP)

 

5月14日、北川中学の被災地で、宋志永さんは解放軍の将兵たちと共に床板を運び、瓦礫を掘り、生き埋めになった人々を探していた。この日、彼は倒れた住宅アパートから3人の子供を救い出した。宋さんは感激の面持ちで「3人はみな女の子で、大きな子は14歳、小さい子は8、9歳、生きていた、みんな生きていたんだ!」と繰り返した。

 

宋さんは、唐山の普通の農民で、ほかの唐山の農民たちと同じように、自ら救援に駆けつけた。彼らのうち12人は今では「唐山青年ボランティア」隊を結成している。「地震の消息を聞いてすぐ、行かなければと思った。ささいなことだよ、何をためらう必要がある?」

 

翌日、宋さんは被災地に駆けつけた。ただし飛行機の便が取り消されたため、宋さんはまず鄭州に向った。そこでも飛行機のチケットが買えなかったため、宋さんは、思い切って4600元で車をチャーターして北川県にたどり着いた。途中、綿陽から来た救援部隊に会い、兵士たちとともに北川県に入り、専門の救助隊員の仕事を助けた。「救援活動が終わるまで、家には帰らない。最後まで頑張りぬく」と宋さんはいう。

 

被災地では、宋さんのようなボランティアが他にもたくさんいる。被災地の人々に水と食糧を運んでくるボランティアもいれば、負傷者の看護をするボランティアもいる。ボランティアは被災地の人々とともに、危険を冒しながら第一線にいる。

 

私たちは被災地の人々と共に

 

5月13日、重慶市の市民は被災者のために次々と献血に駆けつけた。献血車の前には長蛇の列ができた

 

汶川の地震発生後、上海市の血液管理事務所の電話は壊れる寸前まで鳴り続けた。献血をのぞむ団体と個人は数え切れないほどだった。13日、14日、上海市の30カ所の献血ステーションでは、毎日2000人近くが献血した。北京では3000枚の献血予約券はすぐ無くなり、管理スタッフはやむをえず人数一人あたりの採血量を制限した。

 

地震後、社会各界は、被災地への募金活動を始めた。重慶では、一人の30過ぎの男性が百元札の束を高々と掲げ、募金箱の前にやってきた。「一万元です。被災地の助けになるといいですが」。彼はその場を去ろうとした瞬間、またなにか思い出したようにまたポケットから百元を取り出し、募金箱に入れた。スタッフが何度も聞いたが、彼は名前を明かさなかった。

 

楊全秀さんは、重慶合川からやってきた農民で、手にくしゃくしゃの5元札を握りしめていた。人ごみの後ろから様子をうかがっていた彼は、最後に募金箱に5元をいれた。彼は貧困家庭で、5元は全家族の食事一回分である。

 

北京では、文化界、メディア界、スポーツ界、企業各界で、募金の波が広がり、チャリティー公演やチャリティー試合が絶え間なく行われた。18日夜には、中央テレビ局の総指揮による「愛の貢献――2008年抗震救災大型募金イベント」が行われ、その場で15億1429万元が集まった。

 

1980年代以降生まれの若者たちも、この時はみな同じだった。「私たちに何ができる? 被災地に募金しよう」。これが多くの大学のインターネット上の伝言板BBSに現れた一番多い書き込みだった。BBSは学生たちのインターネットの遊び場で、笑い話から怒りの文句まですべてが伝言される。けれど5月13日、各校のBBSは厳粛で、ほとんどが震災に関するものだった。地震発生後、学生たちは携帯にショートメッセージを受け取った。「被災地の通信はパンク状態。四川に気軽に電話するのは慎み、通信空間を、必要とする被災民に残そう」

 

静かな応援

 

5月14日、河南省開封市のある社区(コミュニティー)で、被災地のために寄付をする住民たち

 

余甚蘭さんは、北京語言大学の2年生、彼女の家は、震源近くの汶川である。5月12日、地震のニュースは彼女に大きなショックを与えた。何度も家に電話したが、通じない。たちまち、どうにもならない恐怖が襲ってくる。家族はどうしたのだろう、ただ、あせりながら知らせを待つしかない。同級生はただ彼女の傍らにつきそい、言葉も少なく、ネットであらゆる地震のニュースを検索するのみだった。5月15日、ついに父からの無事を知らせる電話がかかってきた。「クラスのみんなの思いやりに本当に感謝したい。一番どうにもならない時に、ただ黙って応援してくれました」と余さん。

 

北京語言大学にはまた多くの留学生がいる。地震発生後、彼らもまた被災地支援活動の最中にある。日本からの留学生、加藤由貴さんは、「日本は地震国です。だから汶川の地震のニュースを聞いた時も、最初はそれほど驚きませんでした。けれど、その後、今回の地震の激しさ、多くの人が亡くなったことを知りました。被災地の人を助けたいと思います。自分の募金がそんなに力を発揮するとは思っていませんが、ただ、より多くの人に被災地を助けてもらいたいと思います」と言った。

 

北京語言大学宣伝部、李進・副部長は「わずか3日間で、全校の募金は40万元を超えました。120カ国から来た4000人近くの留学生が被災地のために募金しています」と話す。

 

国際的支援

 

5月16日、日本の国際緊急援助隊の第1陣31人は四川省青川県で生存者の捜索や援助活動を行った

 

5月16日未明、日本政府から派遣された31人の国際緊急援助隊が成都に到着した。これは地震発生後、最初に中国に入った外国からの援助隊である。またこれは中国の歴史上初の、海外からの専門援助隊による救援活動である。17日正午、第2陣の日本の国際緊急援助隊29人が青川県に入った。日本の隊員は最新の設備を持ち、隊員の経験は豊富である。16日、青川県喬荘鎮で、援助隊は、16時間の作業を経て、生後70日の赤ちゃんを抱いた母親を見つけ出した。母子はすでに亡くなっていたが、日本の援助隊の努力に被災地の人々の感激は尽きない。

 

地震発生後、福田首相は中国政府指導部に見舞いの電話をかけた。日本政府は中国政府に500万ドルの緊急資金を提供することを決めた。福田首相はブログのなかで「自然災害を懐手で傍観しているわけにいかない。危険時に助け合ってこそ、真の友人となれる」と書いた。

 

日本の援助の実施を担当している駐中国日本大使館の香川剛広公使は、こう述べている。

 

「日本の救援隊の第一陣は5月16日に成都に到着し、作業を始めました。残念ながら、人命救助にはいたりませんでしたが、隊員たちは昼夜を分かたず活動しました。これに続いて20人で構成される第二陣の医療チームが被災地に派遣されます。このチームは外科、内科、感染症やクラッシュシンドローム対策の医療人員で構成されています。5月18日、日本から最初の6000万円相当の緊急援助物資と1億2000万円相当の50台の血液透析器を成都に運びました」  そして現在、中国の地震救援は生命の救助という段階から負傷者の治療や家屋の再建などの段階に入ろうとしているとし、地震災害の経験を積んでいる日本としては、中国側の要請があれば、再び救援物資を送ることを検討したい、と述べた。

 

被災地に公演の興行収入を寄付する坂東玉三郎氏

 

政府以外に、日本の多くの企業、社会団体、各界の友人たち、弊誌の読者の方々も中国に対し、慰めと励ましの気持を表している。西園寺一晃・東京都の日中友好協会副会長、稲村隆二・神奈川新聞社社長はそれぞれ弊社に慰めの手紙を寄せ、稲村社長は神奈川新聞社では募金活動中であることを告げた。

 

今年の本誌4月号で紹介した日本の歌舞伎界の名士、坂東玉三郎は、地震発生時、中日版崑曲『牡丹亭』と歌舞伎『楊貴妃』の北京公演の最中であり、地震のニュースを知って、ひどく心を痛めた。今、このときは、まさに被災民にとって、もっとも困難、かつ助けを必要とする時である。坂東氏は、本当は被災地の人々のためにチャリティー公演をしたいと考えていたが、時間的に許されない。そこで、公演期間中に販売された、中国語と日本語が併記されたプログラムとブロマイドの売り上げ、それに5月15日の興行収入をあわせ、被災地に寄付し、その気持を伝えた。

 

日本以外に、ロシア、韓国、米国、パキスタン、国際オリンピック委員会など各国や国際組織から次々に慰問および資金、人力が寄せられている。

 

地震は被災地の人々には限りなく重い災難となった。けれど、中国と世界は今、災難と戦い、より美しい明日を築く、という共通の望みを抱いている。(0806)

 

人民中国インターネット版 2008年7月

 

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