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「その時すべてが変わった」

 

晴天の霹靂

 

被災地都江堰市で現地取材をする本誌の劉世昭カメラマン(右端)

 

5月12日午後2時28分、私は四川省成都市のあるホテルにいた。5月13日に臥竜パンダ自然保護区を取材する予定で、四川省入りしていたのである。

 

翌日の出発時間の相談を終え、ホテルの部屋に戻ったとたん、建物が荒波の中をゆく船のように激しく揺れ出した。

 

地震だ! 

 

私はすぐにトイレに逃げ込んだ。このときすでに携帯電話は通じなくなっていた。

 

二分ほど揺れていただろうか。時間の経つのが異様に長く感じた。激しい揺れがようやくおさまったので、階段を使って外へ出た。通りは恐怖におののく人々でいっぱいだった。

 

靴をはかずに飛び出てきた人もいれば、昼寝をしていたのかパンツ一丁で駆け出してきた人もいた。みんなはあれこれと今の地震について話し始めた。そして、携帯電話を取り出して電話をしようとしたが、まったく通じなかった。

 

たくさんの人が市中心部の天府広場へ向った。特に学生が多かった。人々はまだ心を取り乱したままで、地震発生時の自分の状況や恐怖について、とめどなく語っていた……。

 

パンダの赤ちゃんを安全な場所へ移す臥竜自然保護区のスタッフ(写真・臥竜人)

 

一時間後、ある人の携帯電話がインターネットに通じ、成都から約100キロ離れたアバ・チベット族チャン族自治州の汶川県で巨大な地震が発生したことをようやく知った。

 

私は北京に携帯のショートメッセージを送ってみたが、返信は届かなかった。

 

午後4時、ホテルの部屋に戻って固定電話から北京へ電話をかけた。人民中国雑誌社とも連絡が取れた。成都市のテレビ局の6つのチャンネルはすべて地震のニュースを報じていた。この間、余震が相次ぎ、ホテルはずっと揺れていた。  夜になると、成都の各広場は避難してきた人々で埋まった。駅前の広場だけでも一万人以上の人がいただろう。列車は運行を停止、空港も閉鎖、商店も店を閉めた。恐怖におびえ、誰もが眠れない夜だった。

 

悪いニュースがどんどん伝わってくる。心配な出来事が次々と起こる。地震によって亡くなった人たちや経済損失に心が痛むと同時に、地震の中心地に生息するパンダたちの安否も気にかかった。

 

19日に臥竜パンダ自然保護区から衛星電話を通して伝えられた最新の情報によると、保護区の中は山崩れが起き、管理局の建物は損傷し、一部のスタッフが死傷したという。

 

人工繁殖育成基地にあるパンダの飼育舎32棟のうち、14棟は完全に倒壊し、18棟は深刻な損傷を受けた。地震に驚いたパンダが6匹失踪したが、スタッフが危険を冒して3匹見つけ出した。残りの3匹は現在までのところ見つかっていない。パンダの赤ちゃんたちも安全な場所に移されたが、仮の飼育舎は少し狭いという。

 

まだ余震が続き、人工繁殖育成基地の両側は山崩れが頻繁に発生している。パンダの安全は依然として予断を許さない状況だ。また、野生パンダの状況についてはまだ把握できていない。

 

「雄起」する成都

 

都江堰市の被災者を成都まで無料で送り届ける李清海さん

 

成都市は四川平原の中心に位置する。秦代に建設された水利施設・都江堰に守られ、「天府の国(資源に富み物産が豊かなところ)」と呼ばれてきた。

 

物産が豊かなため、日照りにあっても降雨が多すぎても収穫が得られ、昔から、快適な生活を送れる都市のひとつとみなされている。人々は茶館に行ったり、世間話をしたり、マージャンを打ったり、四川名物の麻辣烫を食べたり・・・・・・。安逸でのんびりとした時間が流れる都市だ。

 

地震発生の翌日、本社から被災地で救助活動の取材をするよう指示を受けた私は、今回の地震で深刻な被害を受けた地域のひとつである都江堰市に向おうとした。しかし通りには一台のタクシーも走っていない。後で知ったことだが、成都の北西約50キロのところに位置する都江堰市の災害状況がひどいことを知ったタクシードライバーたちは、次々と都江堰市へ救援に向ったのだという。

 

歩いて成都の繁華街・春煕路へ行くと、ほとんどの店が閉まっていて、閑散としていた。隣の広場に設置された「錦江愛心献血屋」の前には、100メートル以上の長い列ができていた。雨の中、300人ほどの市民が被災者のために献血する列を作っていたのだ。

 

市内西部の「青羊愛心献血屋」では、近郊の郫県中興寺からやって来た釈興道法師(52歳)と出会った。献血の列に静かに並んでいた。彼女は「捧げられるものは何でも捧げたい」と語った。

 

ようやくタクシーがつかまった。都江堰市へ取材に行くと告げると、ドライバーの李清海さんは、「被災地の取材に行く記者からタクシー代は取れない」と言った。私がそういうわけにはいかないと言うと、「あなたのような現場に向う記者を乗せただけで私は光栄です。成都のタクシードライバーを代表して、被災者たちの役に立てたのですから」と言った。

 

都江堰へ向う途中、李清海さんは自分の状況を語ってくれた。50代の彼は、もともとあるセメント倉庫で働いていたのだが失業し、今はタクシードライバーで生計を立てているのだという。月収は4000元に満たない。病弱で家にいる妻と最近仕事を始めたばかりの娘の3人家族。80歳の両親の面倒も見ている。

 

今日はすでに100元を寄付してきたという。成都と都江堰を往復すると、ガソリン代も含めて少なくとも400元はかかる。それでもタクシー代は断固として受け取らなかった。

 

私を都江堰市で降ろすと、李清海さんは三人の被災者を乗せて成都市に戻っていった。もちろん、彼らからもタクシー代は取らなかった。私はこの一介のタクシードライバーに成都人の強さ、気高さを見た。まさに四川方言でいう「雄起(勇ましく立ち上がる)」だ!

 

75時間ぶりの救出  

 

救助隊員は瓦礫の中から申桂珍さんう救い出した

 

都江堰市は四川汶川大地震で深刻な被害を受けた地域のひとつである。成都市から汶川県にいたる要路でもある。  

 

本誌の「世界遺産めぐり」でも紹介したことがあるが、都江堰の水利施設は国内外によく知られており、成都および四川省の人々の暮らしを支えている。私はかつてここを取材したことがあるため、今回の地震で水利施設に被害はなかったのか、非常に気になった。

 

都江堰に住む友人の携帯電話に何度か電話をかけ、ようやく通じた。彼は災害救助指揮センターで救援活動をしていた。そして、「心配するな。都江堰の水利施設はまったく被害を受けていない。正常に機能している。ただ、近くの廟宇などの建物は倒壊してしまった」と言った。

 

今回の地震における私の心配種のひとつは消えた。秦代に建設されたこの水利施設は、世界遺産の称号を得ているだけある。厳しい自然災害にも負けなかったのだ。これまでの長い歴史のなかで、幾度となく今回のような過酷な試練を乗り越えてきたのだろう。

 

都江堰の市街地はあらゆるところが救援の場となっていた。人々はみんな家から出てきて、空き地にテントを張り、臨時の住居を構えた。救急車や水を運ぶ消防車、救助用の作業用車、救助隊を乗せたトラックなどが頻繁に行き交う……。

 

15日午後3時40分、私は市内の荷花池市場近くの建物が倒壊した現場にいた。武装警察の成都消防隊と成都市錦江区の民兵が、瓦礫の中に生き埋めになっている女性を救助している最中だった。

 

この女性は15日11時40分ごろに発見された。この日は朝から成都市錦江区の民兵たちがショベルカーで現場の整理をしていた。民兵たちは瓦礫をひとすくいするたびに、そこにできた隙間に向って、「誰かいませんか?」と大声で叫んだ。そしてこの女性を発見したのだ。

 

民兵たちは助けを求める女性の声を聞くとすぐに、専門的な救助技術と装備を携えた武警成都消防隊に協力を求め、共同で救助活動を行った。彼らはまず、ショベルカーのうでの先で今にも崩れ落ちそうになっているコンクリートの塊を押さえ、幅1.5メートル、高さ50センチの空間を作った。そして二人の隊員が中に入り、ジャッキや拡張器などの工具を使って女性を救出する空間を作った。周りの人たちは穴の中から瓦礫や砂をくみ上げ、医療スタッフは埋もれている女性に対して酸素や生理食塩水を補給した。

 

女性の家族は私といっしょにやきもきしながら救出されるのを待っていた。生き埋めになっている女性は申桂珍さん、年齢は35歳。夫の楊学文さんによると、一家はこの倒壊した6階建ての建物の一階に住んでいたという。

 

夫の楊学文さんは病院に申桂珍さんを見舞う 

 

地震が発生したとき、家族たちはみんな逃げ出てきたが、申桂珍さんだけが取り残され、建物の中に埋もれてしまった。家族たちはもう生きている可能性はないとあきらめていた。子どもには、お母さんは遠いところへ仕事に行っているのだよと言い聞かせていたという。

 

申桂珍さんがまだ生きていると聞いたとき、家族は急いでここへ駆けつけた。夫の楊学文さんの顔はずっとこわばったままだ。焦りの色も浮かぶ。

 

救助活動は数々の困難があり、とても難しいものだった。申桂珍さんの左すねは崩れ落ちたコンクリートの下敷きになり、堅く挟まれている。専門的な技術を持った武警消防隊員も非常に焦った。現場にいた医師は、彼女の左足はすでに壊死しており、救助しても切断しなければならないと診断した。

 

余震は絶え間なく発生する。周りの建物も今にも崩れ落ちそうだ。刻一刻と申桂珍さんや救助隊員たちの命に危険が迫る。

 

専門の救助隊員は決断した。「命を救うことが第一だ!」  医師はすぐに左足切断の手術を行った。そして午後5時35分、瓦礫の中からとうとう申桂珍さんが救出された。地震発生から75時間7分後の救出だった。  一般的には72時間が生死の分岐点とされる。この奇跡の救出に、周囲からは大きな拍手が沸きあがった。申桂珍さんのいとこの楊亮さんは、ずっと写真を撮り続けていた。申桂珍さんを救ってくれた人たちを記録するのだという。「私たち一家はこのことを一生忘れません。彼女の子どもにもこのことを教えるつもりです」

 

あくる日の16日、私は病院に申桂珍さんを見舞った。彼女は土地を失った農民で、夫の楊学文さんは都江堰市の鋳鋼工場で働く労働者だった。地震が発生したときは茶碗を洗っており、建物の中から逃げ出すことができなかったのだという。

 

申桂珍さんは暗闇の中で、必ず助けが来ると信じていた。上から声が聞こえると助けを求めて叫んだ。しかしその声はなかなか届くことはなく、いたずらに時間が過ぎていった。どのくらい時間が経ったか分からないが、突然、目の前が明るくなるのを感じた。そこで力の限りに助けを求めた。そしてついに救助隊に発見された。

 

救助活動の間、救助隊員たちはずっと申桂珍さんを励ましていた。「がんばれ! 負けるな! 私たちは必ずあなたを助ける」と。夫の楊学文さんも申桂珍さんの埋まっている近くに来て、彼女を励まし続けた。

 

現在、申桂珍さんの気持ちと傷の状態は落ち着いている。

 

 日本から届いた友情

 

5月13日10時26分、一本の電話が私の携帯電話に入った。広島県福山市に住む日本の友人、笹山徳治さんからの電話だった。笹山さんは次のように話した。「広島県と四川省は友好交流関係を結んでいます。私は被災者救援のために寄付します」 

 

笹山さんは私に成都に住む李強さんを探してほしいと言った。李強さんを通して、2万元の薬品を被災地の病院に送りたいということだった。

 

14日、李強さんは車を運転して消炎に用いるアモキシシリンの注射薬を二箱、地震で深刻な被害を受けた什邡市の赤十字会に届けた。笹山さんは、広島県ですぐに四川の被災者を救済する募金活動を行うと言った。

 

15日夜9時25分、日本の国際緊急援助隊の第一陣が北京に到着。そして16日未明に成都に降り立ち、その7時間後、災害の状況が深刻な青川県の現場に駆けつけた。

 

17日午後、日本緊急援助隊の第二陣が青川県に到着した。そして第一陣と合流して北川県へ向かい、救助活動を行った。

 

私は成都人である。故郷の人たちは、最も困難なときに手を差し伸べてくれた友人たちを決して忘れることはない。(0806)

 

人民中国インターネット版 2008年7月

 

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