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開港150年の横浜と中国

 

自国の近代化と発展を引っ張った上海と横浜の開港

鄭祖安

上海社会科学院歴史研究所研究員 

産業革命の成功は、社会的商品の大幅の増加と余剰をもたらした。それが西洋列強を、市場を開拓して海外に拡張するという植民地主義の道に進ませた。日本や中国を含む多くのアジアの国々は、西洋列強によるさまざまな形の侵略によって、国の門戸を破られ、それぞれ異なった歴史の道を歩んだ。

中国のように、主権を失い、国が辱められ、半植民地に陥った国もあれば、日本のように、主権の侵害を受けながらも、なお独立を維持し、後には強国までに発展した国もある。

西洋列強は中国とも日本とも、不平等条約を結んだ。条約の内容はそれぞれ異なるが、もっとも基本的な共通点は、港湾を開港し、通商を認めることであった。

横浜と上海は、それぞれその国で初期に開港され、西洋列強が中日両国に進出する先駆的な拠点となり、西洋と東洋、新世界と旧世界の文明がぶつかりあい、融けあう接点となった。横浜と上海は他の都市に先駆けて、近代的都市化へと動き出したのである。

『ペリーの横浜上陸図』。ハイネの水彩画にもとづく石版画。1855年刊。 嘉永7年2月10日(1854年3月8日)、日本の開国を求めて来日した米国の東インド艦隊司令長官、ペリー提督と将兵たちは横浜に上陸、浜辺に急造された応接所に入り、日米会談が開始された(横浜開港資料館提供)

名もない土地が国際都市へ

開港前の横浜は、80数戸の半農半漁の村に過ぎなかった。周りは農地や沼沢地で、そこに他の村が点在していた。米国のペリー提督が率いる黒船が来航してから、ここは急速に発展し、一躍、日本の対外貿易、金融、文化の中心となった。国際化した大都市となり、国際的に有名な港を持つようになった横浜は、「世界の横浜」と呼ばれるようになった。

中国の歴史上、上海はそれほど古くから栄えた街ではなかった。交通の要衝であり、商業の盛んな街ではあったが、一地方の行政と経済の中心ではあっても、全国的な価値や影響力を有してはいなかった。街の規模や繁栄の程度も、中レベルの県城程度でしかなかった。

しかし、開港するやいなや上海は、中国が世界に開いた5つの港の1つとして、西洋各国から格別に重視され、もっとも重要な貿易港と見なされた。1850年代の半ばころ、上海は中国唯一の対外貿易港であった広州を追い越し、中国の対外貿易の中心に躍り出た。そしてさらに、中国の金融、経済、文化の中心に発展した。上海はやがて中国一の大都市、世界的に有名な港になり、「国際大都会」と呼ばれるようになった。

優れた地理生かす

上海と横浜はともに海に面し、すぐれた地理的位置にある。しかし、開港する前は、横浜の地理的優位性は活かされず、港もなかった。上海は川と海に囲まれているが、清朝の鎖国政策によって、江南(江蘇、安徽両省の南部と浙江省の北部)地方での商品交換にやや大きな役割を果たしたものの、限定的な海外貿易を行うことしかできなかった。

開港によって、この2都市の地理的優位性は大いに開発された。国内の水上運輸の中心になっただけでなく、アジアの水上運輸の中心、世界の航路の重要な中継港となった。

水上運輸はこの2都市と国内のほかの地域、さらに全世界と緊密に結びつけた。この結びつきは客観的に、2都市が世界に進出するためのすぐれた条件をつくり出し、貿易の飛躍的発展と商業の繁栄をもたらした。 上海と横浜は対外開放された後、貿易総額はうなぎのぼりに増加し、他の港を追い越した。開港してまもなく、上海と横浜は、それぞれ先行して開放されていた広州と長崎を追い越し、それぞれの国最大の対外貿易港となり、全国の対外貿易の中心となった(表1、表2を参照)。この巨大な変革は、上海と横浜の経済の勃興をもたらした。もっとも目立ったのは、都市の商品経済の発達であり、国内の貿易と市場の繁栄であった。

開港後、上海には各国の商人が相次いでやってきて、外国人経営の商社が雨後の筍のように現れた。1914年の『上海指南』に掲載されている上海の各業種の商店数は1693店にのぼる。また、大型百貨店も登場した。

一方、1881年の『横浜商人録』によれば、当時の横浜にあった商業の業種はすでに187種あり、商店数は3068軒に達していた。これらのデータは上海と横浜の商品市場が成熟し、商品経済が高度に発達していたことを示している。商業の繁栄はこの2つの港町の地位を引き上げ、都市の繁栄をもたらした。

物質文明と西洋文化の受け入れ

開港によって、上海と横浜は、自国の他の都市に先駆けて、世界と向き合うことになった。と同時に、世界各国もまず上海と横浜へ進出してきた。この2つの都市はそれぞれ、中国と日本が外の文明とその影響を受け入れる窓口となった。

近代の商工業、金融業、文化・教育事業などは程度の差はあれ、上海と横浜に出現し、形成され、発展した。そして、進んだ物質文明と、伝統文化とは異なる外来文化の影響によって、上海と横浜の市民は視野が広がり、急速に意識が変わり、社会を認識し、改造する能力が大いに強まった。これこそが社会の改革を行う根本的な力であり、都市の建設と改革を推し進める巨大な動力でもあった。

開港は、上海と横浜が勃興するうえで、歴史的な新しいスタートラインとなり、2つの港町はそれによって、開放的で幅広い、活力のある近代化と国際化の道を進むことになった。

異なる歴史的評価

開港が歴史的意義を持つことは、横浜でまず認められた。1860年、横浜は開港一周年の記念活動を行った。さらに開港50周年の時にも、盛大な記念行事を挙行し、市民からの募金で「開港記念会館」と「開港広場」が建設された。

そして今年、横浜はさらに開港150周年記念イベントである「開国博Y150」を開催し、国を挙げてこれを祝っている。横浜の開港は、日本近現代史上の重要で意義ある歴史的なできごとであると認識されている。

上海港

横浜港 

しかし中国においては、上海開港の歴史は、屈辱の歴史として強調されることが多い。それは、中国の開港は不平等な条約の下で迫られて行われたものであり、中国が主権を失い、国が辱めを受けたことの象徴の1つであり、中国社会全体が半植民地化し、落ちぶれる始まりの1つであると、ずっと見なされてきたからである。このため、開港は、外国との戦争に敗れた屈辱と苦痛を伴ったつらい歴史の暗い影となっているのだ。

しかし上海と横浜の開港は、実は、知らず知らずのうちに中国と日本を孤立と停滞、閉鎖と隔絶から脱出させ、ここから世界へ進出させた。これは、西洋植民地主義が東洋を侵略した「罪悪」が生み出した反作用である。

しかし、今日の国際大都市としての上海と横浜は、欧米から飛んできたものでも西洋の国々から送られてきたものでもない。大量の西洋の物質文明と先進的な科学技術、人材と資金を導入したうえで、自国の幅広い人力と物力に頼り、自国の人民と政府の長期的で大きな努力を通じて、中日両国自身の土地の上に成長してきたものである。

上海と横浜はそれぞれ、中国と日本が外部世界と連結する最前線地域に位置している。近代においては、先駆けて対外開放し、近代文明を導入する歴史の重任を担ってきた。先駆者として上海と横浜は、自国を近代化し、振興するうえで重大な役割を果した。

1960年代以来、世界経済の構図に注目すべき大きな変化が起こった。まず日本が急速に復興し、続いて香港、台湾、韓国、シンガポールが一躍、世界の先進的な国や地区となった。70年代の末期、中国の大陸部が「改革・開放」を実行し、経済がめざましく発展した。こうした一連の変化によって、ある経済学者は、太平洋地域が世界の経済発展の中心になると予測した。

「太平洋時代」の到来は、上海と横浜に良好な国際的な発展環境と歴史の優位を生かす客観的な条件を提供するであろう。これは、19世紀中期に西洋の勢力が侵略してきた時と比べることはできない。その当時は、抑圧するプレッシャーの下で成長したが、現在と将来は、一種の巨大な力に推されて躍進するからである。(上海社会科学院歴史研究所研究員 鄭祖安)

 

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