地理上の重要な境界線

 

日月山の山道に「日月山」と書かれた石碑が立っており、山頂にある「日亭」「月亭」と呼応している

 

  千年以上前、唐朝と吐蕃は婚姻関係を結び、文成公主が遠く吐蕃のソンツェンガンポ王に嫁いだ。言い伝えによれば、文成公主は長安の都から険しい道を西へ進んで日月山に着いたとき、郷愁の念を禁じ得なかった。山頂に着いたとき、枯れ草が広がり、雲が重く垂れ込め、雪山が連なる眼前の景色を見て、悲しみが込み上げてきて、さめざめと涙を流した。このとき彼女は、出発前、太宗が日月宝鏡を与えてくれ、もし故郷が恋しくなったら、宝鏡の中に故郷の様子が見えると言ったことを思い出した。でも、宝鏡の中に見えたのは、寒風の中で涙をぼろぼろとこぼしている自分の顔だけだった。それで、彼女は悲しみのあまり日月宝鏡を崖に投げ捨てた。宝鏡は地面に落ちて二つに割れた。こうして、人々はここの呼び名をもともとの赤嶺から日月山へと変え、日月山は民族団結を象徴する歴史的な名山となったのだ。

 

 文成公主は西へ進み続けたが、涙は止まらなかった。涙は集まって川になり、東から西へ延々と40以上流れて、最後は青海湖に流れ込んだ。中国の大部分の川は西から東へ流れるが、この川は逆向きに流れるため、「倒淌河」と名付けられた。実際のところ、倒淌河は東から西へ青海湖に流れ込む普通の内陸の川に過ぎない。だが、後世の人々はこの自然現象を利用し、文成公主をしのぶ気持ちと尊敬の念を一筋の細い流れに寄せて伝えた。文成公主の吐蕃入りは、唐朝と吐蕃に平和的な交流をもたらした。同時に、唐朝の進んだ耕作技術と書籍をもたらし、両者間の経済文化方面の交流を促進し、また両民族の親密な友好をも増進した。文成公主を記念するため、1984年、日月山の入口の両側に「日亭」と「月亭」の二つのあずまやが建てられた。そこには文成公主とソンツェンガンポ王の彫像が置かれている。  藍色の大空の下、二つのあずまやが陽光に照らされ、ことのほか荘厳かつ厳粛に見える。漢白玉で作られた文成公主の彫像はきず一つなく真っ白だ。彫像をじっと見ていると、一種の敬意が自然に湧いてきて、彼女が西へ行ってまいた漢族とチベット族の友好の種が絶えず生き続けていると感じられる。手に宝鏡を握り、遠くを眺めるその姿は、偉大な歴史に対する限りない追憶をもかき立ててくれるようだ。