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沈没船「南海Ⅰ号」 800年の謎を解く

 

2002年に「南海Ⅰ号」から引き上げられた漆器のかけら(写真・徐訊) 1987年に「南海Ⅰ号」から引き上げられた金メッキのチェーンベルト(写真・徐訊)

 

2007年12月22日、広東省陽江市東平港の南約20カイリの海域で、クレーン作業船「華天竜」号の巨大なアームが、積年の沈泥に覆われた沈没船「南海Ⅰ号」を、海底から引き上げた。

 

800年もの間水中で眠っていた 「南海Ⅰ号」とは、一体どのような船であったのだろうか。なぜ沈没したのか。なぜこれほどの大きな注目を集めるのか。どんな価値があるのか。

 

長い間さまざまな憶測が語られ、謎の解明が待たれていた「南海Ⅰ号」の積まれたケーソンが開かれれば、神秘のベールがはがれることになるだろう。

 

南中国海に沈んだ船

 

2007年3月15日から5月8日、中国水中科学考察スタッフは中国南海内海域で沈没船「華光礁Ⅰ号」の緊急の発掘及び水中考古調査活動を行った。華光礁は海南省西沙群島エリアに属し、「華光礁Ⅰ号」が沈没した遺跡は、華光礁環礁内にあることが1966年に中国の漁民によって発見された(写真・関向東) 水中の沈没船の位置を検査、測定する技術スタッフ

 

1980年代は、海底の宝探しラッシュであった。1987年8月、中国交通部(省)に属する広州市救撈局(水中の救援や水中物を引き上げる仕事を担当)はイギリスのある海洋探測会社と契約を結び、広東省台山市と陽江市の境界の海域で沈没した東インド会社の二つの船を、共同で探すことを決定した。

 

調査を進めるうちに、偶然、磁器を満載した宋代の沈没船を発見した。引き上げられた二百数点の遺物の中からは、景徳鎮窯や竜泉窯、徳化窯、建窯といった宋代と元代の四大名窯でつくられた精美な磁器だけでなく、錫製の水差し、銀塊、「政和通宝」「紹興通宝」の銅銭など、数多くの貴重な文物が発見された。長さ170センチの、エキゾチックなデザインの、洗練された金メッキの腰帯(チェーンベルト)は、引上げ作業をしていた現場の人々をとりわけ驚かせた。中国側の担当者は文物保護のため、すぐに引き上げ作業を中止し、発見の知らせを広東省文物主管部門に報告。この沈没船の発見は考古学界の注目を集め、国の文物関係部門でも調査や発掘準備が進められることになった。

 

潜水作業に臨むスタッフ

2004年に「南海Ⅰ号」から引き上げられた銅銭

 

当時、中国は水中考古学の実践経験を持っていなかったため、1989年8月、国務院の認可を経て、当時の中国歴史博物館と日本の水中考古学研究所が共同で「中日連合中国南海沈没船調査学術委員会」を設立、この沈没船を「南海Ⅰ号」と命名した。1989年11月15日から20日まで、中日の考古者たちによる「南海Ⅰ号」に対する初めての水中調査が行われ、大体の位置が確定された。しかしその後、さまざまな事情により、中日双方の協力活動は続けることができなくなった。

 

2001年4月、「南海Ⅰ号」プロジェクトは香港の「中国水中考古探索協会」の援助によって、再び立ち上がった。中国歴史博物館水中考古研究センターは広東省文物考古研究所などの機構と共同で、「南海Ⅰ号」沈没船水中考古隊を結成。改めて「南海Ⅰ号」の調査を行い、正確な位置を把握するに至った。

 

1989年から2007年までの間に、水中考古者たちは8回にわたり、「南海Ⅰ号」に対する水中考古探測や試掘を進めた。最終的に、この沈没船は長さ30.4メートル、幅9.8メートル、深さ約4メートル、船体は1メートル以上の土砂に覆われたまま水深25メートルの海底に沈んでいることが確認された。探測資料によると、船体の保存状態は比較的良く、甲板の上の構造は失われてはいるが、メイン甲板やその下の舷側、船倉、梁などの構造はほぼ完全に保存されており、船倉の中には美しい磁器や金属製品がきちんと並んでいる。「南海Ⅰ号」は、これまで中国の海域で発見された最も重要な水中考古発見であり、海上シルクロード、中国古代航海史、対外貿易史、造船史についての研究を深めるうえで、きわめて重要な意義がある。

 

謎の沈没船

 

2007年に「南海Ⅰ号」から引き上げられた金メッキの竜紋腕輪(写真・徐訊) 2007年に「南海Ⅰ号」から引き上げられた木製の櫛と石彫りの観音像(写真・徐訊)

 

2002年3月から5月まで、中国国家博物館と広東省文物考古研究所などの機構が共同で、「南海Ⅰ号」の初歩的な発掘作業を行った。沈没船の中部のわずか1平米の小さな船倉から、数々の精美な文物が引き上げられた。約4000点の磁器のほかに、漆器や石製品、鉄器、銅器、馬蹄銀、大量の銅銭などが発見された。これをもとに、ある専門家は船内の文物の総数は6~8万点に達するであろうと見積もった。

 

これまで引き上げられた文物を見る限り、船内から発見されたのは主に大量の磁器であり、種類ごとにきちんと揃えて船倉内に置かれていたことがわかる。磁器の数、種類、置かれた場所などによって、それらがこの船の輸送する主な商品であったことが推定される。

 

2004年、専門家たちは再度「南海Ⅰ号」の詳しい調査を行った。今回の調査では、大量の銅銭が引き上げられた。そのほとんどは北宋時代のものだったが、最も古いものは後漢の「貨泉」、わずかながら隋と唐、五代の銅銭も見られ、最も新しいものは南宋の「紹興元宝」であった。このことから、「南海Ⅰ号」は今から800年あまり前の南宋時代に沈没したと推定される。

 

引き上げられた文物の中で、1987年に発見された幅約3センチ、長さ170センチの、緻密な技巧を凝らして作られた金メッキのチェーンが最も注目を集めた。このチェーンの両端の結び目から見て、専門家はこれを腰帯と考えている。また、腰帯の貴重さから、これは船長の遺物であると見られている。この腰帯の形や製造技術は中国のものとはまったく違うもので、明らかに西アジア風のものであるため、船長は西洋の出身である可能性も考えられる。一連の考古発見から、「南海Ⅰ号」は海上シルクロードと結びつけて考えられるようになった。

 

2007年に南海Ⅰ号から引き上げられた凝結物の中の「醤釉四系罐」 2002年に「南海Ⅰ号」から引き上げられた碗底墨書。製作した職人の名前と思われる(写真・徐訊)

 

中国の南中国海からインド洋に通じる航路は、遅くとも漢代には開通していた。しかし、航行誘導技術が進歩した宋代に入ると、遠洋貿易の商船は海岸を離れ、遠海航行ができるようになった。宋と元の時代の中国の海上貿易の繁栄については、イタリアの旅行家マルコ・ポーロが旅行記に書き残している。最近、イギリスの学者が資料を整理して出版した『The City of Light』という本には、当時の西洋人に「東方一の港」と呼ばれた泉州港がいきいきと描かれている。「南海Ⅰ号」は、この航路を往来していた数え切れないほど多くの商船のうちの一つであったのかもしれない。

 

中国の南中国海からインド洋に導く海上シルクロードでは、複雑に入りくんだ海岸線や、点在した暗礁などを通過する険しい航路である。一方、悪天候も商船の安全を脅かす。「南海Ⅰ号」は、航行中に突発的な嵐に遭遇して海底に沈没した可能性が高いと考えられる。

 

「南海Ⅰ号」は文化のキャリヤーとして、大量の情報を積んでいる。発見以来、造船史、開港史、航海史、海上シルクロードの貿易史、磁器製造史など多方面に貢献する最も直接かつ新鮮な、信頼できる資料として、各分野の学者たちが多大な期待を寄せている。

 

海上シルクロード博物館

 

広東海上シルクロード博物館全体図

広東海上シルクロード博物館全体図

 

今から八百数年前に海底に沈没した宋代の木造船「南海Ⅰ号」は、長い歳月や海水の浸食によって、船体が非常に老朽化している。「先に貨物を取り出し、後から船体を引き上げる」という伝統的な引き上げ方法では、沈没船に「二次破壊」をもたらしてしまうことは避けられない。

 

 「南海Ⅰ号」の秘められた歴史的、文化的情報を最大限に保護して集め、古代海上シルクロードの豊かな文化遺産を守りながら「海上シルクロード学」研究に貴重な現物資料を提供するため、中国国家文物局は2002年より各分野の専門家たちを集め、「南海Ⅰ号」に対する水中考古作業をいかに進めるかの研究や論証を重ねた。

 

 「南海Ⅰ号」の特殊な埋蔵状況、複雑な海底環境、海水の透明度の低さなどの問題に焦点を合わせ、船を丸ごと引き上げるという斬新なアイデアを打ち出した。「南海Ⅰ号」沈没船や船に堆積している土砂をそのまま特製の鋼製のケーソンに固定し、一括して引き上げ、広東海上シルクロード博物館が「南海Ⅰ号」のために建設した「水晶宮」に運びこみ、人がコントロールできる水中環境で発掘と保護作業を行う。これは、国内外でも先例のない試みであった。

 

広東海上シルクロード博物館は陽江市海陵島の「十里銀灘」に位置し、投資総額1億6000万元、敷地面積13万平米、館内のコレクションは3万点という規模を誇る。

 

広東海上シルクロード博物館

海上のシルクロードの航路

 

博物館は、5つの大小さまざまな不ぞろいの楕円形が連なるようにして形成されている。全体は起伏する波にも、古い船舶の竜骨にも見える。メイン建築の核心である「水晶宮」は、海底環境をシミュレートした60メートル×40メートル、水深12メートルの大きな水槽で、水質や水温、その他の環境も「南海Ⅰ号」が沈んでいた場所と完全に一致している。

 

 観光客は「南海Ⅰ号」の現場作業を以下のような方法で見学することが可能となっている。

 

一、地下一階の水中参観回廊を利用して見学する。

 

二、パノラマルームから360度のパノラマ景観を楽しむ。

 

三、「水晶宮」の上に立ち、二十メートル以上の高さから沈没船全体を見おろす。

 

引き上げ作業進む

 

12月22日、「南海Ⅰ号」のケーソンが、超大型クレーン車「華天竜」と大型のバージ「重任1601」の共同作業によって引き上げられた ゆっくりと「水晶宮」に運びこまれる「南海Ⅰ号」

 

2007年4月8日、「南海Ⅰ号」の丸ごと引き上げプロジェクトが正式に始動。広東省陽江市付近の海域で、7億元近い建造費の超大型クレーン作業船「華天竜」が、はかり知れない価値をもつ南宋の沈没船「南海Ⅰ号」の引き上げにとりかかった。

 

その後の8カ月の間に、中国交通部広州市救撈局はまず「南海Ⅰ号」の船上の凝結物を整理してから、鋼製の枠を水中に入れ、沈没船にかぶせるように組み立てて固定した。それから、鋼製のケーソンを海底に沈め、ケーソンの中に圧縮空気を送ったり、梁をケーソンの底部に通したりするなどの作業を行った。

 

沈没船を浮かび上がらせるのは、「南海Ⅰ号」を引き上げるプロジェクトのキーポイントである。作業の成功を確実するため、広州市救撈局の技術者たちは精密に計算し、「二重保険」の計画を立てた。「華天竜」がケーソンを水面から一メートルほどまで引き上げ、水中で待機していた半潜水型バージ(はしけ)「重任1601」の上に載せ、バージの排水によってケーソンを浮かせる水上と水中の連動である。

 

広東海上シルクロード博物館の「水晶宮」で進む最終工事(写真・徐訊) 引き上げた「南海Ⅰ号」のケーソンを補強する作業員

 

12月22日、800年もの間ひっそりと海底で眠っていた南宋の沈没船「南海Ⅰ号」が、その姿を現した。12月28日、広東省海上シルクロード博物館で「南海Ⅰ号」の搬入儀式が行われた。「南海Ⅰ号」は「水晶宮」に運びこまれ、引き上げ作業は無事完了した。

 

発見から20年の歳月を経て、「南海Ⅰ号」はようやく海底から浮かび上がったが、そのベールを完全に脱ぐまでには、まだまだ時間が必要である。まず外部のケーソンを取り外し、考古学的なプロセスを経て、周辺の土砂や凝結物を処理し、沈没当時の姿がようやく姿を現すことになる。

 

専門家の予測では、5年から10年ほどで「南海Ⅰ号」の正体を知ることができるというが、整理作業後の研究にはさらに長い時間が費やされるだろう。この沈没船に対するあらゆる推測を検証するためには、より多くの新しいデータが必要とされる。「南海Ⅰ号」の正体が私たちの目の前にその姿を見せたときには、数々の学術的な疑問に答えてくれるだけでなく、それが象徴する時代を呼び覚ますであろうことをみな信じている。 (魏峻、曹勁、崔勇=文 交通部広州市救撈局=写真提供)

 

 

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