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『人民中国』の生みの親、康大川

弊誌元副編集長 安淑渠 (文中敬称略)

1953年6月、初代編集長の康大川と同僚たちが心血を注いでつくりあげた『人民中国』(日本語版)の創刊号が日本で発売された。これが新中国成立以来、初めて刊行された、中国の事情を日本に紹介する雑誌であった。

1955年、中国貿易代表団に随行して訪日した『人民中国』の記者、康大川(右)と通訳の安淑渠(中央)、『人民日報』の記者、汪渓(左)は岩波書店を訪れた。汪渓は後に『北京週報』の編集長になった(写真は安淑渠提供)

『人民中国』(日本語版)が誕生するまでには、その前身となる雑誌が二つあった。一つは1946年5月に上海で発行された英文の『NEW CHINAWEEKLY』(新華週刊)であり、もう一つはその年の末に香港で発行された英文半月刊の『CHINA DIGEST』(中国文摘)である。

それが発展して1950年1月1日、英文の半月刊『PEOPLE’S CHINA』(人民中国)が発行された。これは新中国成立後初めて、中国が世界に向けて政治、経済、社会や外交政策を紹介し、各国人民との友好を増進するために発行した刊行物である。翌年、ソ連や東欧圏に向け、ロシア語版が発行された。

『人民中国』(日本語版)の発行のために、康大川が転勤を命じられて北京に来たのは、1949年11月のことであった。英語版とロシア語版には共同の編集部があったが、日本語版はゼロから始めなければならなかった。

そこで康大川はまず瀋陽に行った。そこにあった華僑向け新聞の『民主新聞』が間もなく停刊しようとしていたので、そこで働いていた池田亮一や菅沼不二男ら8人のベテランの日本人のジャーナリストを『人民中国』に招聘した。さらに康大川は大連に行き、後に文化部次官となる劉徳有や私たち4人を元の職場から異動させた。さらに北京で招聘した日本からの帰国者を加え、『人民中国』(日本語版)の陣容が整った。

初代編集長の康大川の思い出を語る安淑渠(左)(写真・楊振生)

さらに康大川は瀋陽から、日本語がわかる文選工を連れてくるとともに日本の活字、印刷機材などを持ってきた。そしてみなが大きな一間の部屋にぎゅう詰めになりながら日夜、仕事に励んだ。

二回の試験的発行に続き、インクの香りの漂う『人民中国』(日本語版)が誕生した。みなが祝杯を挙げようとしていたその時、突然、大きな叫び声があがった。「ちょっと待て!」

一人の日本人の名前が間違って印刷されていたのだった。当時は、文字を修正するのに、まず刀で活版上の誤字を削り、その上に鉛で正しい字をかぶせる。みなが総出で、24時間かけてすべてを修正した。この出来事は「読者のために責任を負い、少しもおろそかにせず」という教訓を残した。  康大川は台湾省の出身である。日本の東京錦城学園で学び、早稲田大学を卒業した。1938年、彼は抗日戦争に参加するため帰国し、郭沫若が指導していた国民党軍事委員会政治部第三庁で、日本軍に対する宣伝と戦争捕虜の管理に従事した。彼は寛大な思いやりと人道精神で日本軍人の捕虜を感化した。

康大川は日本をよく知る人であったが、毎日、退勤する時には必ず、日本の新聞や雑誌を一抱え、家に持ち帰って読んだ。彼は読者からの手紙を仔細に読み、北京に来た日本の友人の意見をよく聞き、絶えず雑誌を改善した。

また『人民中国』誌上で「中国の歴史」「シルクロードいまと昔」「1300年の大運河を行く」などのコラムや連載を掲載し、多くの読者から喜ばれた。

康大川は2004年、永い眠りについたが、私と同僚たち、多くの日本の友人たちはみな、彼が生涯、『人民中国』に尽くした貢献を忘れないであろう。

 

人民中国インターネット版 2009年8月31日

 

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