張春侠=文 王祥=写真
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金陵刻経処では、伝統的な手作業による版木に文字を彫る技術が受け継がれている |
南京といえば、誰もが真っ先に思い浮かべるのは、中山陵や夫子廟、彩り豊かで美しい夜景の中の秦淮河といった名所に違いない。にぎやかな中心部の繁華街に、喧騒の中にあって静けさの漂う空間があることを知る人は少ない。140年ほど前から今日にいたるまで、ひっそりと静かなその庭に足を踏み入れた人はみな、経を印刷する音を耳にしたはずだ。ここは、国内外にその名を馳せる金陵刻経処である。(文中敬称略)
楊仁山と金陵刻経処
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金陵刻経処の創始者である楊仁山 | 灰色の壁と灰色の瓦に囲まれた庭内に入ると、繁華街の騒々しさはたちまち扉の向こうに追いやられる。金陵刻経処の肖永明主任に案内され、静謐な庭を横切ると、「深柳堂」と名づけられた建物の前にやってきた。部屋の中央には一人の老人の肖像画が飾られ、その上に「深柳堂」と書かれた扁額が掲げられている。肖像画に描かれているのは深柳堂の主人で、金陵刻経処を創設した清末の著名な仏教研究家、楊仁山居士である。
安徽省出身の楊仁山(1837~1911年)は幼少から聡明さで群を抜き、弱冠14歳で文章や詩歌に精通していた。27歳のとき、病の後に仏典『大乗起信論』を読んだのをきっかけに、仏教に興味を持つようになった。1866年、楊仁山は一家を挙げて南京に居を移し、10年あまりにおよぶ太平天国の農民烽起による戦火に見舞われた街の復興作業に携わることになった。戦後の南京では仏教の文物書籍はすっかり破壊され、もっとも一般的な『無量寿経』『十六観経』ですら見つけるのが容易ではなかった。そこで、楊仁山は友人とともに金陵刻経処を創設した。
仏教の復興の前提は、まず経書を救うことである。そのため、破壊された経書を探し求め、改めて製版、印刷することが金陵刻経処の主な仕事であった。楊仁山の指導の下、刻経処で印刷される経書には、句読点が加えられ、段落分けされ、校勘されるなど、より綿密で行き届いた読みやすいものとなった。
それだけでなく、楊仁山は経典の彫刻と講義を一体とするために、刻経処に「祇洹精舎」という僧学校及び「仏教研究会」を設け、自ら仏教の講義も行った。仏教関係者のみならず、救国の道を模索していた章太炎、梁啓超、譚嗣同ら革新的な思想家たちも続々と講義を聴きにやってきた。仏教思想は新しい社会思想と融合し、近代における中国社会全体の変革の方向付けに影響を与えた。かつて梁啓超はこう語っている。
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深柳堂の裏庭にある塔。楊仁山はここに眠り、金陵刻経処を見守り続けている | 「近代の新思想家で、楊仁山の思想の影響を受けていない者はいない」
深柳堂の中には、様々な経書の並ぶ二つの書棚が壁に沿って置かれている。楊仁山が買い集めたものである。1875年より、楊仁山は相次いで英国、フランスを訪問した。英国の博物館では、国内でいくら探しても見つからなかった中国の古代経書を発見し、そのことに深く感動した彼は、経典の彫刻と仏教の普及に尽力する決意を新たにした。
また、楊仁山は海外訪問中にオックスフォード大学のサンスクリット研究者、真宗派学者の南条文雄と出会い、互いに経書を贈り合い、切磋琢磨し合う関係となった。帰国後、楊仁山は南条文雄を頼って、日本から中国の隋唐時代の高僧の遺著280冊あまりを購入した。中には、中国ではとうの昔に失われたものも少なくなかった。これらの経書のうち、190種類860冊が、今なお深柳堂に無傷で保存されている。
そのころ、日本の蔵経書院は『続蔵経』を編纂している最中であった。楊仁山は日本側の求めに応じ、国内で八方手を尽くして探し出した数十種類の仏典を、蔵経書院及び南条文雄らに相次いで提供した。経済面においても『続蔵経』をサポートした楊仁山の名前は、「仁山居士」として「随喜助縁芳名録(寄進者リスト)」の筆頭に挙げられている。
金陵刻経処における仏典の印刷、整理、収集など業務上の莫大な出費は、楊仁山の収入、あるいは善意の募金に頼っていた。資金を工面するため、楊仁山は使節として海外を訪れたのを機に地球儀を販売するなど、考えうる限りあらゆる手を尽くした。楊仁山の努力のもと、仏教典籍は次第に復活しつつあった。刻経処に集められたものや経版木を保管するため、楊仁山は自宅の庭に経版楼を建てた。1897年、楊仁山は延齢巷の私宅を寄付し、1901年にはさらに住宅60軒を刻経処に寄付した。ここが現在の金陵刻経処である。
1911年に楊仁山が亡くなたとき、金陵刻経処では211種類1157巻の経典が印刷され、4700枚あまりの経版木、18体の仏像を保存していた。「遺体は経版木のあるところに」という楊仁山の遺言に従って、楊仁山の弟子と門人たちは、刻経処の深柳堂の裏、経版楼の前に塔を建てた。楊仁山はその塔に埋葬され、金陵刻経処を見守っている。
楊仁山の逝去は日本でも大きな反響を呼んだ。当時日本に政治亡命していた章太炎が東京で追悼会を呼びかけると、日本仏教界の高僧たちもただちに呼応した。
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