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黄河流域の麺食文化

魯忠民=写真・文

陝北の日常の麺食品

陝西省には、独特の麺食文化がある。つまり小麦粉で作られた各種の食品が生活に密着して存在する。 

南河底は陝西省北部の佳県の黄河近くのごく普通の小さな村である。1947年毛沢東が陝北に転戦する時、ここに数十日泊まったことで、この小さな村が有名になった。1980年、中央美術学院の学生だった私は同級生と一緒にここで卒業創作をやったが、住んだのは毛沢東がかつて住んでいたという窰洞である。あの十数日、素朴な劉維国生産隊長が毎日朝早く門を敲き、朝ご飯を作ってくれた。黄土高原は日照りで水不足のため、農民たちは旱魃に強いアワを植えていた。加えて当時この辺はまだ非常に貧しく、一般の家庭は年に十数斤(一斤は500グラム)かの小麦粉しか手に入らないので、旧正月やお祝いごとの時にしか食べない。ところがどんなに説得しても、劉隊長は生産隊の限られた小麦粉で、毎日私たちのために麺を作ってくれた。心の温かい陝北人はいつも一番いいものをお客さんに食べさせる。あの時は麺食品が一番のご馳走だった。ほかほかの麺が出来上がるといつも、理由をつけて劉隊長は帰ってしまう。自分は幹部なので、みんなのものに手をつけるわけにはいかない、と言った。夕方、隊長はまた来て火をおこし、大鍋に水を入れて、アワ、そして“銭銭(大豆)”と呼ばれるぺちゃんこに引きつぶしたものとナツメの三種を鍋に入れて粥を作る。甘くておいしくて、その味は今も忘れられない。

農家が干麺を作っている 旧正月の村の農民はどの家もみな、例年通り盛りだくさんな料理を神様に捧げる

28年の歳月が過ぎ去った。2008年の旧正月後、私がそこに戻って会った劉隊長はずいぶん年寄りになっていた。「改革・開放」後、彼の家もずいぶんと変わっていた。窰洞も十数年前に新しく建て、明るくて広くなっていた。息子一人と三人の娘もすでに結婚し、息子と嫁は近くの道教の聖地・白雲山でお土産品の小さな店を開き、いつもは山に住み、元気なかわいい孫が彼らと一緒に暮らしている。私たちが泊めてもらったあの数日、老夫婦はあれこれとおいしい料理を作ってくれた。もちろん、ほとんどは白い小麦粉で作った餃子やマントー、烙餅(小麦粉をこねて油や塩を加え、丸く伸ばして鍋で焼いたもの)、包子(肉まん)などであり、麺の造り方はいろいろ、麺棒でうすく伸ばすか、引っ張って伸ばすか、つかんで引っ張るかである。陝北の旧正月の定番「油糕」というのは、粘りけがあるアワの粉をこねて丸めて揚げたもので、旧正月前にたくさん揚げて作り置き、正月中これで客をもてなす。今は普通の食品になった白い小麦粉も、ここでの生産はきわめて少ないので、ナッメを売った金や観光などで稼いだ金で買う。他にもアワで作った撈飯(八分炊きしたアワをすくいだして別の釜で蒸したもの)や粥、トウモロコシで作ったマントーや粥なども主食として食べる。ジャガイモは野菜にも主食にもなり、蒸しても炒めても味が良い。昔は食糧が少なかったため、ジャガイモが主な食べ物で、野菜といえばカボチャだったが、今はどの季節でも新鮮な野菜が食べられる。ここは県都から5キロメートルしか離れていないので、なんでも手に入る。

黄河の河辺の小さな村――南河底の一角 自宅の窰洞前の劉隊長と小さな孫

窰洞では、寝る炕(中国式オンドル)が食事を作るかまどとつながっているため、料理する時の余熱を使って床を暖めることができる。お客が来ると主人はいつも炕の上に招くので、私はよくあぐらをかいて座っていた。隊長は地面の小さい腰掛に座ってふいごをリズムよく引き、奥さんはかまどのそばに立ちニコニコしながら湯気が上がる釜に麺をつかんでは投げ込む様子は、一幅のめでたい家庭を描いた絵に見える。劉隊長は若い時は朝早くから夜遅くまで、山で石材を切り出しては河の堤を修理し、黄河では棹をつっぱっては波風と戦い船を進め、毎年のように繰り返し黄土高原を耕して、わずかばかりの糧を得、いつも空腹を抱えていた。ここ十何年、黄河流域のナツメが全国に売れて収入が増え、生活もよくなった。今では衣食も足り、テレビで世界のできごとが見られるし、電話もあって外と連絡が取れる。祝日には家族全員そろって一緒においしい料理を食べたり、村の住民と大いに盛り上がる。劉さんはそれ以上の高望みもないので、それなりに満足し幸せだという。

 

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