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江西省の農民古典劇「孟戯」と「宜黄戯」

魯忠民=文・写真

江西省撫州市の村々には、明代(1368~1644年)に興った民間伝統演劇である「孟戯」と「宜黄戯」が残っていて、いまも上演されている。その演劇の担い手は、いずれも農民たちで、芝居は人々の暮らしに溶け込んでいる。市場経済の波が押し寄せる中、こうした地方劇の存続も危ぶまれている一方、農民劇団が結成されて他の村で公演するなど、たくましく生き残ろうとする動きも見られる。

初の国の無形文化遺産──「孟戯」

広昌県は江西省の東の外れに位置し、撫州市に属する。そこは丘陵地帯で、河川が縦横に走り、白いハスの生産が盛んだ。広昌県の甘竹鎮には、大路背村と赤渓村の二つの村があり、毎年、旧暦の正月には、『孟姜女 長城に泣く』という物語の芝居がもっぱら演じられる。それは俗に「孟戯」と呼ばれている。

赤渓村で「孟戯」が上演される日の午前、「出帥」のパレードが行われる

しかし、二つの村で演じられる「孟戯」は、台本と節回しが違う。赤渓村の芝居は、「曽」姓の人が演じ、明の正統年間(1436~1449年)に始まったので、すでに500年以上の歴史がある。大路背村の「孟戯」は、「劉」姓の人が演じ、明の万暦年間(1573~1620年)に始まった。「孟戯」は一種の続き物の芝居で、舞台での演出と民俗の祭祀活動がワンセットとなっている。

信仰集める「三元将軍」

中国では、民間に伝わる孟姜女の物語を知らない人はいない。秦の始皇帝の時代に、孟姜女は范喜良と結婚したが、三日目に新郎は万里の長城の建設に駆り出されて、遠く北方に行かされ、間もなく飢えと疲労のため死んでしまう。孟姜女は冬着を背負い、苦心惨憺して夫を尋ねて長い旅をし、とうとう長城のあたりにまでやって来た。

しかし、そこで夫がすでに亡くなったことを知る。孟姜女は三日三晩泣き明かした。すると万里の長城が崩壊し、そこから夫の亡骸が出てきた。孟姜女は絶望のあまり、海に身を投げて死ぬ。

赤渓村では旧暦の正月12日、「出帥(将軍のお出まし)」の日を迎える。「孟戯」は宗教的な祭祀と演劇とが一体となっており、「下座」「出帥」「請神」「辞神」「上座」の順で構成されている。毎年、旧暦の正月2日に稽古を始め、正月15日の元宵節の前の正月12日から14日までの3日間に、吉日を選び、午前中に「出帥」し、その夜、公演を行う。

清源祖師と三元将軍が祭壇から降ろされ、「出帥」の準備をする

祠堂内で「孟戯」を観ようとしている観客は、神の通路のために真ん中を空けている

赤渓村には「曽」姓の人が多数を占めている。曽氏の族譜によると、曽氏は北宋(960~1127年)の文学者、曽鞏の直系の末裔である。元末明初に、曾鞏の子孫である曾永宣が、江西省の南豊県から広昌県甘竹鎮に引っ越してきた。

曾永宣の孫である曾紫華は親孝行で、戦乱の中で目の不自由な母親を背負い、村人といっしょに曾家の付近の山中に逃げたが、見る見るうちに敵兵が追いついてきた。すると三人の神将が天から降りて来て、砂や石を飛ばして敵兵を追い払った。曾紫華は額づいて天に礼拝し、命を救ってくれた天の神に感謝した。

すると山の中から銅鑼と太鼓の音が聞こえてきた。音のする方を探すと、切り立った山の崖に大きな木箱が二つあるのを見つけた。箱の中には、「孟戯」の台本と24の面があった。その中の三つの大きな面は、敵兵を退けた三人の神将によく似ていた。曾紫華の母が神将の面に触れると、不自由だった目が再び見えるようになった。

そこで村人たちは木箱を天秤棒で担いで村に帰り、劇団をつくり、台本と面に基づいて配役し、稽古を始めた。それから曾家は、毎年、旧暦の正月に「孟戯」を演じるようになった。三つの面は、蒙恬、王翦、白起という戦国時代の秦の将軍であり、「三元将軍」として祀られ、曾氏の祠堂に位牌が置かれている。

最近、曾氏の祠堂は壊れかけてしまったので、村人は本来は村の講堂であった建物を祠堂とした。新しい祠堂は広くて明るく、正面には曾氏の始祖の清源祖師と三元将軍の祭壇が置かれ、表の扉の両側には二つの高い台があり、「孟戯」が演じられるとき二つの高い台の間に板をかけると舞台が完成する。舞台が祭壇と向かい合っているのは、芝居は主に神に見てもらうもので、人は神のお供で芝居を見ているに過ぎないことを意味している。

朝から村人はだんだん祠堂に集まってくる。午前10時ごろ、「管首」と呼ばれる主宰者が、三元将軍の面の前で香を焚き、礼拝し、口の中で祝詞のようなものを称える。その後、村人たちが清源祖師と三元将軍の面を祭壇から降ろし、駕籠の椅子の上に移す。村人たちは駕籠の後ろについて行列をつくり、礼砲が三発鳴り、銅鑼と太鼓、チャルメラが露払いをしながら長い「出帥」の列は、村の路地や田畑の中をくねくねと進む。

列の順番には先祖伝来の決まりがある。先頭は銅鑼と太鼓、チャルメラ、その後に清源祖師、さらに三元将軍の面が続く。将軍は白起、王翦、蒙恬の順に進む。それぞれの将軍の後ろにはみな、旗や幟、龍の形をした灯籠、銅鑼や太鼓、楽器が付き従う。 隊列は決まったコースで、付近のいくつかの村々と廟宇を回る。「曾」姓の家の門前を通るたびに、その家の主人は早々と門前に祭壇を用意し、爆竹を鳴らして恭しく隊列を迎える。

三元将軍の仮面をかぶると神の化身になる 化粧している演者たち

「出帥」から帰ると、清源祖師と三元将軍の面は元の祭壇に安置され、主宰者が祭壇の前で祝詞をあげた後、豚を屠り、祭壇の前に供え、村人たちが次々に前へ出て、身体を曲げて礼拝し、神の加護を祈る。

夜の帳が降りると、「請神」の儀式が始まる。男の信者たちは手に線香と蜡燭を持ち、村の入り口にある石橋から祠堂の門まで、百歩ごとに線香と蠟燭を道に立てる。その後、主宰者が神への上奏文を読み上げ、全国の名山や大寺院に祀られているさまざまな神仙や「孟戯」を演じた歴代の演者ですでに物故した人の名前を一つ一つ称え、彼らの魂が芝居を観に来るよう招くのである。

「孟戯」には楽器の伴奏はなく、演者たちはすべて歌だけを歌い、「司鼓手」と呼ばれる打ち手が、太鼓や銅鑼、「镲」と呼ばれる小型シンバルを打ってリズムをとるだけだ。

歌が、「将軍議事(将軍たちが事を議する)」の場面まで来ると、舞台の下の観客は自然に道を開け、一族の中で声望の高い老人たちが、祭壇から清源祖師と三元将軍の面を両手で捧げ持ち、舞台の上り口で演者に渡す。演者が仮面を被ると、祠堂の内外で一斉に爆竹が鳴らされ、観客は全員起立して、三元将軍の面に向かって礼拝する。

三元将軍を演じる演者には、多くのタブーがある。演ずる前の日には体を清め、肌着を替えなければならない。そして面を被ったら勝手にしゃべることはできず、舞台がある間は妻と同衾してはならない。また犬の肉や牛肉を食べることは許されない。牛は田畑を耕し、犬は忠実なので、三元将軍は牛や犬を食べる習慣がなかったと言い伝えられているからだ。

女性も舞台に

赤渓村の「孟戯」は二晩の続き物の芝居で、64幕あり、すべて演ずるのに九時間かかる。これに対し大路背村の「孟戯」は三晩の続き物の芝居で、70幕、11時間上演される。専門家によると、赤渓村の「孟戯」の台本は元の時代につくられた『孟姜女千里送寒衣(孟姜女、千里、寒衣を送る)』で、その源は古代の「南戯」であるという。南戯は南宋の時代に温州一帯で演じられた古典劇である。

「孟戯」の将来を憂いているベテラン演者たち

ベテラン演者である劉挺蓀さんによると、「孟戯」は昔、「宜黄戯」の劇団から招かれた浙江人の宋子明が教えたが、宋子明の死後、彼の墓の側に清源祖師の墓も建てられ、毎年、劇団の弟子たちが祀ってきた。しかし「文化大革命」の際に、この二つの墓は破壊されてしまったという。

今年65歳になる曽卓文さんは、30年間、曽家の劇団の演出をつとめてきた。彼の父は銅鑼を叩く係りで、祖父と伯父は劇団の座頭をつとめたこともある。曽さんは10歳から芝居を習い始め、「生」(男役)「旦」(女形)「浄」(敵役)「末」(脇役)「丑」(道化役)をすべて演じることができる。

「『孟戯』は、私たちの一族の祭祀劇で、村の男性はみなこれを習わなければなりません。そして個人の能力に応じて役柄を決めます。『孟戯』の伝承はみな口伝によるもので、節回しや台詞の一つ一つを先輩が教え、それを厳格に模倣するのです。かつては、一族の決まりで、「曽」姓の人だけに伝え、男だけで女には伝えないと決められていました。だから、以前の劇団には女性演者はいませんでした」と曾さんは言う。

この数年、公演する条件が改善され、演者たちは村外に出て、皮簧戯(京劇の前身で、「西皮」と「二黄」という二つの節回しを主とする芝居)を演じて稼ぐようになった。その金で美しい舞台衣装や小道具を買い、祠堂を改築し、舞台も大きくした。

十数年前からは、劇団に女性の演者が出現した。主演の孟姜女に扮する曹麗芳さんは、11歳の時に、18人の村の子どもたちとともに「孟戯」の養成クラスに参加した。先生は曽卓文さんで、「孟戯」の後継者を養成するため一生懸命に教え、自分で模範を示した。だが、曹さん以外の十八人の仲間はみな出稼ぎに行き、いまなお芝居を続けているのは彼女だけだ。

孟姜女と范喜良は、幸せな生活を送っていた 「将軍議事」の一場面

数年前、彼女は江西省の芸術学校に行き、五年間、踊りを勉強した。しかし卒業後、歌舞団には行かず、村に帰ってきて、子どもたちの踊りのクラスをつくった。これをつくったのは、「孟戯」の公演が続けられるようにするためだ。演者たちは出稼ぎに行く者が多く、帰ってきて稽古に参加できる人は少なくなり、芝居の質が急激に低下している。演者が足りないので、芝居の幕の数を減らしたり、メイク係りがいないのでメイクの質が低下したりしている。このような状況に対して、ベテラン演者たちは心を痛め、「孟戯」を果たして伝えていけるかどうか、心配している。

中国演劇史の専門家である流沙氏は「孟戯」の節回し、外題、劇団のメンバー、開祖の人々などを十数年にわたって研究した結果、赤渓村に今も伝わる「孟戯」の台本は、世に一つだけ伝わっている古代の南戯の台本であり、「海塩腔」という節回しはずっと昔に失われたと思われてきたが、「孟戯」の節回しの中にたくさん残っていて、「国宝級の財産」と言ってもよい、ということがわかった。

明の劇作家、湯顕祖は『宜黄県の戯神、清源師廟記』の中で「宜黄県出身の大司馬(明代の兵部尚書の別称)である譚綸は、浙江人の先生を雇い、宜黄の人たちに『海塩腔』を教えた」と記している。「海塩腔」は、明の嘉靖年間(1522~1566年)に「四大声腔」の一つとなった。湯顕祖の不朽の名作『臨川四夢』も「海塩腔」を使ってつくられている。

その後すぐにもたらされた宜黄の活発な演劇活動は、広昌県に広がった。そして500年間、歌い続けられてきた「孟戯」は、すでに失伝した南戯の台本と「海塩腔」をその中に保存し続けてきたのだった。このため2006年、「孟戯」は中国初の国家無形文化遺産に登録されたのだった。

 

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