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墨ひとすじ250年――屯渓に老舗を訪ねる

劉世昭=文・写真

墨作りの師匠は、まだ温かくて柔らかい棒状の墨を私の手のひらに置いた。五本の指でそれをしっかり握りしめ、しばらくしてから手を開いた。私の「生命の暗号」――指紋と掌紋を記録した「手形墨」がこうして完成したのだ。

完成した後の「手形墨」 自分の手で握ることで完成する「手形墨」

 安徽省黄山市屯渓の「胡開文」墨店で、オーナーである徽墨の無形文化財伝承者、汪培坤師匠は私の両手の指紋と掌紋を記録した「手形墨」を錦織の箱に入れて、渡してくれた。私にとって、この対になった二挺の墨は世界で唯一のものだ。

 筆・墨・紙・硯は、古来、中国では文房四宝と称され、書画の創作に不可欠なものとされてきた。早く殷(商)の時代(紀元前17世紀~同11世紀)の甲骨文や戦国時代(紀元前475~同221年)の竹簡にも墨の痕跡があるが、炭素の粉末を膠で固めて現在のような墨が作られるようになったのは漢代(紀元前206~220年)になってからだ。

 徽州(今の安徽省歙県・績渓・黟県・祁門・休寧及び江西省婺源の六つの県)で生産される墨は徽墨と称される。徽墨の生産は唐代末期(九世紀後半)に始まり、宋代(960~1279年)に盛んとなり、一時期衰えたものの、明代(1368~1644年)に復興し、清代(1616~1911年)を通じて広く行われた。

『御園図集錦墨』。胡開文墨店が清の嘉慶元年(1796年)に北京城内の建築と龍を題材にして製作した逸品で、1セット64挺。現在、世界に1セットしか存在しない

「胡開文」を興した 創業者、胡天注の彫像

 「胡開文」は、徽州の人、胡天注が清の乾隆30年(1756年)に創業した墨店で、著名なブランドとして知られている。「胡開文」の二百年余りの歴史上でもっとも輝かしい一ページは、1915年にパナマ運河竣工を祝って開催されたパナマ万国博覧会に出品された「地球墨」が金賞を獲得したことだ。選りすぐりの原料、厳格な工程、精緻を極めた技術は「胡開文」を業界中の一大ブランドに押し上げた。

 胡開文徽墨は原料の選別が厳格で、品質によって高・中・低の三クラスに分けられる。原料の違いから超高級漆煙・桐油煙・松煙・全煙・浄煙・减膠・加香などに分けられる。中でも超高級漆煙と桐油煙がもっとも著名だ。現在、この二種類の墨は伝統的な手工芸技術を遺憾なく発揮するだけでなく、現代の科学技術を製造工程に取り入れて生産が行われており、近年来、新しく開発された粒子の非常に細かい油煙の徽墨は歴代最高の水準に達し、現代の多くの書道家・画家から絶賛されている。日本の著名な画家、故東山魁夷画伯は「中国の徽墨は誰もが賛美してやまない芸術の逸品であり、私たちはそこに悠久の中国文化を見る思いがする」と語っている。

泥を施すことによって鑑賞用の墨が完成する

手形墨を作るには墨の塊を繰り返したたく必要があり、たたけばたたくほど、墨の粒子がきめ細かくなる

 徽墨の製作は、型作りから始まり、次いですす(炭素)を取る、墨の原形を作る、乾かす、磨く、金泥などで紋様を描くなど十余の工程を経る。最高級の墨になると、金や銀の箔が配され、天然の麝香などの香料が加えられるなど装飾に凝ることになる。

 汪師匠の案内で、私は山を背にして建てられた工房に入った。暗い室内には、石製の長い台が何列もしつらえられており、この台には溝が作られていて磁器製の碗が並んでいる。どの碗も内側には黒いすすがこびりついていた。そこは油煙のすすを取っていた工房だったのだ。伝統的な墨の製法は、すべて手作業で行われるが、一つの碗には油を満たして昼夜を問わず火をともし、もう一つの碗をこの碗の上にかざすように置く。油煙から出るすすがかざした碗にたまると、墨工が碗から削り取って、収集する。それが墨の原料になるのだ。その昔はこうした製法はすべて秘密にされていたという。今日、新しく開発された工芸技術では、こうした伝統的な油煙製法より品質がより高い墨を作ることができる。ここは歴史の証人ともいうべき工房なのだ。

伝統的製法で油煙墨を作っていた工房 汪培坤師匠と国家金賞を獲得した新作品『黄山雨後』

 中国の数千年にわたる墨作りの歴史にあって、初期には人々は墨の原料であるすすの塊を自然にこねて、その自然の形状のまま乾かして使用していた。それが墨の原型である。歴史が下るにつれて、さまざまな形状に作られるようになり、歴代の文人があるいは鑑賞し、あるいは収蔵する、書斎に不可欠な宝物となった。明代になると、徽墨は「文人自怡」(文人が自分で作って自分で使う)、「好事精鑑」(親しい友人に贈るための特注品)、「市斎名世」(市場で販売する)という三通りの製品が世に知られるようになり、最盛期を迎える。名品は数多いが、文人が自作した墨が最高級品とされている。

 デジタル万能の現代では、墨を使う生活は普通の人々の日常からは遠のいてしまった。しかし、「生命の暗号」が記録された「手形墨」は、誰にとってもたいへん文化的な趣があり、個性豊かな記念品であることに変わりはない。

 

人民中国インターネット版 2011年2月

 

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