中華学校の王節子先生の取り組み
ドキュメンタリー映画監督 片岡 希=文・写真
美術室にある陳列棚を、子どもたちがのぞきこんでいる。授業開始まで15分はある。早々に押しかけた子どもたちは、思い思いの姿勢で自分たちの時間を満喫中だ。そこら中に置いてある仲間の作品や美術書を手にしながら、お喋りに花が咲いた。
ここに一歩足を踏み入れると、大人でも心が沸き立つ。天井からは缶詰を再利用した子どもたちの作品が吊り下がり、棚という棚には隙間なく置物やら本やら作品やらが置かれている。一見煩雑に見えるが、実は計算されている。
子どもの視界が届くところに置いておけば、彼らは好奇心からそれを手にする。好きなアートを見つけて自分の中に取り込むことは、視点や想像力の豊かさにつながっていく。そう熱っぽく語るのは、横浜山手中華学校美術科の王節子先生だ。
教師でありながら、学校の枠を超えて活動してきた。時間を見つけてはアーティストと会い、美術館をはしごする。それが自分にとって必要なら、アフリカまで飛んで行ってしまうこともある。こうして得た糧を、子どもたちに注ぎ続けてきた。そんな彼女が今、全校児童・生徒・教員565名を巻き込んで新たな作品づくりに取り組んでいる。
題して『幸せのタペストリー』。「あなたにとって幸福な時、幸福なことは何ですか?」という問いをテーマに、565名一人ひとりが20㌢四方の生地にその思いを描きこんでいく。この1枚1枚は数カ月かけてつなげられ、最終的には幅6㍍の巨大作品となる。ニューヨークのチャイナタウンにある中華系公立学校「PS1 Manhattan」(通称PS1M)からも、子どもたちの手による生地が到着する予定だ。海を越えたこのコラボレーションも、彼女独自の発案だ。自腹を切ってまで現地へ渡り、共同制作をかけ合う姿勢は、まさに型破りといえる。
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全校児童・生徒・教員565名分の生地がつながれたタペストリーは、校内中央に飾られた。全校児童・生徒が毎日この作品を目にしている |
人生の転機、久留米から単身中華学校へ
王先生が横浜山手中華学校にやって来たのは、1978年。78年といえば、祖国中国では文化大革命が終了して間もない時代だ。質素堅実な校風にもかかわらず、ジーンズをはきカラフルなTシャツ姿で授業をする彼女は斬新だった。そんな姿を見て「新風を吹き込んだ」と言ってくれた人もいた。
1953年に福岡県久留米市で生まれた。華僑だが、小学校から大学まで日本の教育を受けて育った。日本の学校で非常勤講師を務め、教師の魅力を知ったころ、縁があり中華学校を訪れる。周りに勧められるがまま、軽い気持ちで参観してみた。
当時の学校の印象は、彼女曰く「校内は暗く、廊下には絵もなく、ここでは働きたくないと思った」。しかし、彼女の中には「自分が学校のイメージを変えればいい」というとんでもない考えが浮かぶ。言うは易く、行うは難し。彼女自身、当時の自分を「なんて偉そうに」と評するが、今や美術室は一変、子どもたちのオアシスになっている。
横浜山手中華学校は、2010年4月にJR石川町駅前に拡張移転した。1898年に孫文の呼びかけで設立された伝統校だが、存続が危ぶまれるほど児童・生徒数が落ち込んだ時代もある。それでもここまでになったのは、母校を我が家のように愛する卒業生や華僑らの結束があったからだ。
資金難から給与が途絶えた時代にも、母校を支える教師たちがいた。現校長の潘民生先生(62)も、高校・大学時代から母校に通い、部活や教学のサポートをしている。妻との挙式も中華学校で執り行うなど、その人生は学校なしには語れない。そんな潘先生にとっても、当時の王先生はさぞかし印象的だったはずだ。
「華僑でありながら校友生でない教師は、彼女が初めてでした。当時は会議も中国語で行っていたので、言葉の面だけでも相当の苦労があったはずです」。日本社会で育った王先生にとって、中華学校は「初めて自分のアイデンティティーに気がついたきっかけ」でもあった。こうした転機を迎え、彼女は自分なりの造形教育を見出すために没頭する。毛沢東主席の写真がかかげられていた当時の学校で、新風のようにやってきた王先生は異色だった。
当時の彼女について夫の潘宏生氏(56)は、「日本社会で育っているから中国のことは何も分かっていないし、少しも日本人と変わらなかった。学校側も『とんでもないのが来た』と思ったのでは?」と語る。そんな彼女を「辛抱強く見守り、自由にやらせてくれた」(王先生)のは、当時の学校幹部たちだ。激動の時代を生きてきた彼らの多くは人格者として慕われており、その名は今も語り継がれている。我が身を犠牲にしても、学校を守る時代だった。
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