現在位置: 文化
外も内も一新 中国国家博物館②

 

丘桓興=文 魯忠民=写真

2007年から巨額の国費を投じて改築された中国国家博物館(国博)は北京の天安門広場の東側にそびえている。今年3月、広大な面積を持ち、厳かで風格にあふれ、設備が完備し、豊富な所蔵品を誇る国家博物館がリニューアルオープンし、北京の新名所に加わった。 

現在は中華5000年の文明を一堂に会した「古代中国」の常設展、現代中華民族の奮闘ぶりをひもとく「復興の道」の常設展を見ることができ、特別展として「中国古代青銅器芸術」「中国古代仏像芸術」「中国古代陶磁器芸術」などのほか、ドイツの「啓蒙の芸術」、ペルーの「インカ人の祖先——1〜7世紀の古代ペルー」などの展覧会が観客に歓迎され、新装なった博物館の魅力となっている。

 

展示法に研究成果採用

玉龍 紅山文化(北方地区の重要な新石器文化) 内蒙古三星他拉で出土紀元前4700年頃~同2900年頃 =常設展「古代中国」

魚紋彩陶盆 仰韶文化(黄河中流全域に存在した新石器時代の文化) 紀元前5000年頃~同3000年頃 =常設展「古代中国」

裸体浮彫彩陶壺 馬家窯文化(黄河上流域の新石器時代の晩期文化) 紀元前3200年頃~同2000年頃) =常設展「古代中国」

新装なった国博は、常設展、特別テーマ展、交流展、特別展、臨時展などさまざまな形で来館を待ち受けている。現在、メーンの展示は「古代中国」「復興の道」「現代経典美術作品所蔵展」「中国古代陶磁器芸術」「中国古代青銅器芸術」「中国古代仏像芸術」「啓蒙の芸術」(ドイツ)「インカ人の祖先──1~7世紀の古代ペルー」など。

歴史の区分

「古代中国」展は15番から20番の展示ホールで開かれており、展示面積は1万7000平方㍍。ここは脈々と流れてきた中華文明の歴史と、各民族が多民族国家を構築する歴史的なプロセスを唯一の系統的に展示する常設展だ。

今までの「中国通史」展と比べると、「原始社会」「奴隷社会」「封建社会」などの社会形態で歴史段階を区別するのではなく、歴史時代に従い、太古、夏商西周、春秋戦国、秦漢、三国両晋南北朝、隋唐五代、遼宋夏金元、明清の時代別の8部分に分けている。

これがリニューアルの新機軸で、ここ数年の中国歴史学界や考古学界の新しい研究成果を取り入れている。例えば、数年前、ある専門家が、中国の封建時代は春秋戦国時代から始まったという学説に異議を唱え、歴史学界と考古学界の広範な議論を引き起こしたという。また、「古代中国」展という国家重大文化プロジェクトを準備する際に、その内容企画と形式企画という2つの指導グループを設立し、国博の専門家を組織し研究を繰り返すだけでなく、地方の専門家、芸術家200人余を招聘し、中国歴史時代の区分など各種の重要問題について、セミナーが4回も行われた。結局、展示方法は学術界の多くの新しい研究成果を採用することによって、客観的に古代中国の歴史発展のプロセスを反映したという。

国宝の逸品

「古代中国」展の最も早い展示品は170万年前の元謀人の歯で、現代に最も近い展示品は1911年に起きた辛亥革命の文物だ。2500余点の展示品中、2000余点が貴重な文物で、一級文物も500点余り。これらの展示品は古代中国の各歴史時代の政治、経済、文化、社会生活、諸外国との交流などの進展状況を大々的に展示し、中華民族が創り出した輝かしい文明と人類文明に対する貢献を示している。

初めて展示された国宝は非常に多いが、ここでその中の2点を簡単に紹介したい。

◆四羊青銅方尊 1938年湖南省寧郷県で出土。高さ58.6センチ、重さ34.6㌔、現存する商(殷)代の最も大きい青銅方尊だ。この器は雄大かつ奇妙な形で、4つの肩や腹部および足を合体した4匹の巻き角の羊が巧みにデザインされ、静かなたたずまいながら、生き生きとした動きを際立たせている。羊は古代では吉祥のシンボルで、この4匹の羊の造型は、さらに酒器における方尊に至尊のイメージを与えている。その細工は精巧で、制作者は線彫、浮き彫り、立体彫りという技法で、雲雷紋や夔龍(牛に似ているが角はなく、脚は1本。体色は青の動物)などの文様を器一面に施してあり、とりわけ上品で意味深く見える。鋳造中、事前に鋳造しておいた羊の角を本体の鋳型に嵌め込み、また接ぎ合わせて鋳造すれば出来上がりだ。その優れた技が器の一体感を生み出した。

◆金縷玉衣 中国人は玉を好み、崇拝する。昔の人は玉器を飾り物としたほか、それを神聖化し、玉璧(薄くドーナツ状の玉)や玉琮(内円外方の柱型の玉)で天地を祭祀し、君子の美徳を象徴した。死者を手厚く葬る風習が強かった漢代、帝王と貴族は「玉は遺体を冷やすことができる」という迷信に惑わされ、遺体の腐敗を防ぐために高価な玉片で編んだ玉衣を経帷子とした。そこで、帝王とその妻たちが用いた金糸で編んだ玉衣は「金縷玉衣」と呼ばれ、その他の貴族が用いた銀糸、銅糸で編まれた玉衣はそれぞれ銀縷玉衣、銅縷玉衣と呼ばれるようになった。しかし、遺体に玉衣を着せても「黄金の身体は不敗」とはならず、墓荒らしに狙われ、骸骨まで奪われた。そのため、三国時代になると、曹丕は禁止令を出し、400年も続いていた玉衣の陋習を止めさせた。

四羊青銅方尊(局部) 商(殷)(前1600~前1046) 湖南省長沙市寧郷県で出土 =常設展「古代中国」

金縷玉衣 前漢(前206~25年) 河北省定県八角廊村漢墓から出土 玉片1203枚、金糸約2567㌘を使用 =常設展「古代中国」

中国で、今までに発見された20着余りの玉衣のなかで、1968年5月、河北省保定市満城県にある前漢(前206~25年)の中山靖王劉勝墓とその妻の竇綰墓から出土した2着の金縷玉衣は、年代が最も古く、細工は精緻を極めていた。 

劉勝の金縷玉衣は、かぶり物、上着、袖、手袋、ズボン、靴という6つの部分で構成されている。合わせて2498枚の玉片と金糸約1100㌘を使っていた。仕上げに玉片を順序よく並べ、すきまが緊密で、表面はなめらかで、色合いがよく、玉職人の技は驚くべきレベルだった。

1   2   3   >>  

人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。
本社:中国北京西城区百万荘大街24号  TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850