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外も内も一新 中国国家博物館②

 

歴史の真実

4階の中央展示ホールでは『中国古代青銅器芸術展』が開かれている。展示されている103点の青銅器は形状が豊富で、鼎、簋、鬲などの食器、爵、角、斝などの酒器、編鐘、鐃、甬、太鼓などの楽器、鉞、戈、剣などの武器などがある。これらの青銅器はそれぞれ商(殷)、西周と春秋・戦国時代のもので、それぞれの時代の独特な形状、文様、銘文や書法などの変化と特徴を表し、中国古代の輝かしい青銅器文明をそうざらいしている。

后母戊鼎は、商(殷)王の祖庚または祖甲が母親の戊のために製造させた祭器で、商(殷)、周時代の青銅器の代表作とされる

最も観客を引き付けているのはホール中央の目立つ場所に展示されている「大方鼎」で、1939年に河南省安陽武官村から出土した。この鼎は、高さ133㌢、幅78㌢、壁の厚さが6㌢で重さが832.84㌔もあり、これまで発見された中で最も重い古代の青銅器だ。この「大方鼎」は耳が立ち、腹は四角、壁は厚い。四足は空洞で、動揺しない勢いが感じられる。鼎の耳の外側には2頭のどう猛な虎が向かい合った形で鋳られ、口の中に人頭があり、言い伝えによると、虎の口の中にいる人間は「貞人」(祭司)で、これで胆力と神通力を誇示しているという。鼎の本体と4足は一体で鋳造され、耳はその後「範」(鋳型)で鋳造されたようだ。この鼎を鋳造した金属材料は1000㌔を超えたといわれ、当初は数基の熔炉を同時に使って、鋳造してはじめて成功したようだ。商(殷)の時代には青銅器鋳造の膨大な施設と優れた鋳造術があったことが想像される。

科学的追求

ここで一言触れなければならないのは、この鼎の腹部内壁に「司母戊」という3文字が鋳られていることだ。これによって、研究者たちは当初、古代では「司」を「祀」と読んで祭祀の意味と解釈し、「母戊」が商王文丁の母親の廟号(贈り名)であったため、文丁が母親を祭るためにこの鼎を鋳造したものとして、「司母戊鼎」と名付けた。

青銅缶 戦国(前475~前221年)湖北省随州市随県で出土 重さ327.5㌔これまで発見された中で最も大きく最も重い青銅酒器

ところが、のちに「司母戊」は「后母戊」と読むべきで、鼎も「后母戊鼎」に改名すべきだと主張する人が現れた。この鼎が世に出た際には墓がなく、同時に出土した器物もなかったが、研究者は鼎の器物の形によって殷墟2期(考古学では殷墟を4期に分けている)のものであると判断し、文丁は殷墟3期の人物で、年代的に遥かに遅れていることから、「母戊」が文丁の母親という解釈は否定された。さらに、考証によって、商(殷)の時代には大丁、武丁、祖甲、武乙と4人の王の王后の廟号が「戊」となっていたことも判明した。この4人の中で、大丁の年代はあまりにも早かったし、武乙は殷墟3期になっているので年代として遅れている。では「戊」は武丁、祖甲と関わりがあるのか? 

1976年、安陽殷墟婦好墓から「司母辛鼎」が出土した。その形と構造、文様、銘文の風格などは「大方鼎」と一致し、青銅合金の成分比も極めて似ていた。これによって研究者は、「大方鼎」は婦好墓の出土文物と同様に殷墟2期のものと判断した。婦好は武丁が愛でた妃で中国史上初の女性将軍でもあり、廟号は「辛」だった。婦好の息子2人は祖庚と祖甲でそれぞれ24、25代商王になった。そして「戊」は武丁のもう1人の王后であった。研究者はこれで、「大方鼎」は祖庚または祖甲が武丁王后「戊」のために鋳造した鼎であるとの結論を出して、「后母戊鼎」と改名した。 

このように、「司母戊」が「后母戊」に改名されたことから、国博が歴史の真実を追求する科学的精神を示し、権威のある展示と紹介を通じて偽りのない学術文化の筋道を一般大衆に示していることが分かる。

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