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隋・煬帝の墓と歴史の謎(上)

なぜ「帝陵」ではなく「墓」なのか?

丘桓興=文 王巍=写真提供

2013年3月、江蘇省揚州市で隋の煬帝(在位604~618年)のものではないかとされる墓の発掘調査が行われ、墓誌や十三環蹀躞金玉帯など貴重な文化財が出土し、大発見として国内外の考古学界に一大センセーションを巻き起こした。その後、この発見は「2013年中国考古6大新発見」の一つに位置づけられた。

しかしながら、今回発見された墓を煬帝のものと特定することには、次のような疑問が残る。まず、この墓は帝王の陵墓としてあまりに貧相ではないのか? なぜ「墓」と呼ばれ、「帝陵」と名づけられないのか? なぜ当時の都である長安(今の西安)と離れた揚州に葬られたのか? そして、煬帝は本当に暴君だったのか?  

こうした疑問を解き明かすため、中国社会科学院学部委員(アカデミー会員)・考古研究所の所長・中国考古学会の理事長・王巍教授を訪ね話をうかがった。2回にわたってレポートする。

1号墓から出土した十三環蹀躞金玉帯。蹀躞帯は騎馬民族の伝統的な皮製の帯。帯に蹀躞(小さい輪)を垂らし、そこに日常の小物を差し込む。垂らした蹀躞が多ければ多いほど身分が高い。隋の皇帝の帯飾りは13個の蹀躞が付いていたが、唐代の皇帝は9個に改めた(新華社)

工事現場から学術的大発見  

隋(581~618年)は、300年余りにわたる中国の分裂と戦乱を終結させ統一を実現した、中国の歴史上偉大な王朝の一つであると考えられている。その後の唐代と合わせて隋唐時代と呼ばれており、世界的にも歴史上中国が最も繁栄した時期と認められている。

隋の初代皇帝である文帝楊堅(在位581~604年)は、自ら節約を心がけ、当時高く課されていた賦役(地租と夫役)などを削減し、政治改革も行った。その結果、庶民は落ち着いた暮らしを送れるようになり、国庫も豊かになった。ところが、し烈な宮廷闘争を経て皇帝に即位した煬帝は野心にあふれ、間もなく東都・洛陽の造営に着手、大運河を開削、万里の長城を建設・補修した。それぞれの工事は国を利するものだったが、多くの民力を動員する工事によって民衆に苦難をもたらした。その上、高句麗遠征を3度実施して人々の反発を買い、各地で一揆が発生した。煬帝は最後に揚州で近衛兵によって殺害され、隋は滅びた。その死後1000年以上の間には、煬帝のために墓をつくった人もおり、例えば、清代の大学士・阮元は揚州市槐泗鎮で帝陵も造営したが、その真偽は判別し難いものだった。

2013年3月、揚州の西湖鎮曹荘で不動産開発の工事中、偶然に2組の磚室墓(レンガの墓室を持つ墓)が発見された。揚州市文物考古研究所は即座に考古学的発掘の許可証を申請し、緊急発掘を行った。それによって、1号墓は四角形の磚室墓であり、主墓室と東西の耳室(耳のように両脇に二つ配置する部屋)、甬道(細い通路)、墓道という五つの部分から成っていることが分かった。全長は24・48メートル、東西の耳室を含めた最大幅は8・22メートル、高さは2・76メートルだった。  

煬帝墓の発掘現場(新華社)

4月中旬には1号墓から墓誌と多数の非常に価値の高い副葬品が出土し、墓誌に書かれた「隨故煬帝墓誌」などの文字から、埋葬されたのが隋の煬帝楊広だと推測された。

しかし、これに対して異なる見解を持つ人もいた。中国の古代では死後にも生前と同じく使えるように、衣冠や生活用品を副葬品とするなど、亡くなった人を手厚く葬る風習があった。各皇帝の陵墓は言うに及ばず、これまで発掘された数多くの漢代、唐代の貴族の墓を見ても、規模の大きさや副葬品の多さは人を驚嘆させるほどだ。それらと比べて、煬帝の墓は規模が小さく、墓誌はあるものの帝陵によく見られる哀冊(天子生前の功徳をたたえる韻文)がない。こうした根拠から、こんなに貧相な帝陵があり得るのかという疑問が出されたのだ。

そこで、南京博物館、揚州市文物考古研究所、蘇州市考古研究所が共同で研究チームを作り、発掘作業を進めた。このチームは10万9000平方メートルにわたって調査を行い、136の墓らしきものを見つけた。

2013年11月16日、中国国家文物局と中国考古学会は黄景略、徐光冀、王巍、趙輝、劉慶柱ら10人の考古学専門家を招いて現場を調査し、出土した文化財を研究し、論証を行った。その結果、専門家は揚州曹荘で見つかった隋・唐時代の墓が煬帝のものであり、煬帝と蕭皇后の最後の埋葬地であるとの意見で一致した。

 

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