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隋・煬帝の墓と歴史の謎(上)

 

煬帝の墓と特定された根拠  

揚州曹荘で見つかった墓が煬帝のものだとする証拠はどこにあるのかと質問すると、王巍教授は次のような根拠を挙げた。

1号墓から出土した煬帝の墓誌に書かれた「隨故煬帝墓誌」の文字ははっきりしており、疑いの余地がない
まず、煬帝の墓から墓誌が出土された。墓石に記された文は以下のようになっている。「隨故煬帝墓誌惟隨大業十四年太歳……一日帝崩于揚州江都縣……於流珠堂其年八月……西陵荊棘蕪……永異蒼悟……貞観元年……朔……葬煬……禮也方……共川」。このうち特に「隨故煬帝墓誌」の文字ははっきりしており、疑う余地がない。

次に、1号墓から出土した玉器、銅器、陶器、漆器など貴重な文化財はその数100点余りに上り、埋葬された人物が高い地位にあることを示している。特に十三環蹀躞金玉帯は、これまで中国で出土された類似のものの中で、最も整ったひとそろいのものであり、古代の腰帯の中でも最も価値の高い実物だと言える。棺の装飾の四つの鎏金銅鋪首(獣首付きの門環)は、極めて精美で、獣面の直径は26センチと、唐の大明宮遺跡で出土した宮門の鋪首とほぼ同じの大きさだ。こうした典型的な皇室の遺物から判断すれば、埋葬された人物の身分が極めて高いものであることが分かる。残念ながら、この墓は数度にわたって盗掘されており、金器や銀器などは持ち去られた可能性が高い。副葬品が質素なのはこのためと思われる。

さらに、50歳前後と見られる男性の歯が2枚出土した。煬帝が殺害された時の年齢と一致している。

また、煬帝墓の構造様式は初唐の特徴を持っている。初唐の懿徳太子、永泰皇女、章懐太子の墓はみな、その墓道に幾つかの地上に通じる天窓があり、これは埋葬された人物が生前に持っていた屋敷の中庭の数を象徴している。煬帝墓の墓道は短く、地上に届く天窓もないが、墓道にはしご形の6個の仕切りがあり、それぞれ約1メートルの間隔を持つ。これについて王巍教授は、「これは天窓を象徴しているものだと思います。亡国の皇帝であるため、墓の規模が小さいのは仕方ありませんが、生前に住んだ屋敷にあった六つの中庭を象徴するものが欠かせなかったのです」と話している。このほか、1号墓の墓室に使われたレンガは、隋代に建設された江都城に使われたものと同じで、当時の江都県(現在の揚州市)で生産されたものだ。

 

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