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隋・煬帝の墓と歴史の謎(下)

 

功名心から民衆を苦しめる  

 

煬帝が開削させた京杭大運河は今もなお人々の暮らしに大きな役割を果たしている。写真は1986年当時の蘇州南運河の様子(写真・劉世昭)
煬帝は功名心にとらわれ、権力や財力を誇示するため、塞外(長城の北側)地域を巡幸し、長城の西端に近い張掖(現在の甘粛省北西部)にまで出向くなど民衆や国庫に大きな負担をかけた。

大業3年(607年)、煬帝は50万の兵士と軍馬10万頭を率いて塞外地域を巡幸した。出発前、煬帝は車輪が付き数百人を収容できる移動式宮殿「観風行殿」と、組み立て分解が可能な「六合城」を作らせた。これらを使って行われた巡幸では、草原に一夜のうちに巨大な城が姿を現したことに突厥の啓民可汗や他の首長たちは驚愕し、畏敬の念を抱いた。煬帝の巡幸は北方辺境の安定にも貢献したのだ。  

大業5年(609年)、西域を安定させるため、煬帝は自ら軍を率いて張掖に赴いたが、祁連山脈を越える時に風雪に見舞われ大きな被害を出し、実の姉さえも寒さから病死してしまった。ただ、この張掖巡幸には大きな成果があった。覆袁川で吐谷渾王を包囲し、10万余りの兵を降伏させたのだ。この戦役は西域の各少数民族を震え上がらせ、高昌国が西域27国の首領たちを率いて拝謁を願い出、西域数千里の土地を献じた。その後、隋は西域に西海、河源、鄯善、且末という四郡を置き、シルクロードの安全な通行を確保した。

翌年の旧暦1月15日、西域各国の使者や商人たちが多数洛陽を訪れ洛陽の新豊に国際貿易市場を開設してほしいと願い出た。煬帝はそれに応えて盛大な宴会を催し、洛陽城の端門外でさまざまな出し物を演じさせた。会場は周囲約8キロ、楽師だけで1万8000人を数え、宴会は半月の間昼夜なく続けられたという。見栄っ張りの煬帝は、真冬で裸の木々に葉や花に見立てた色とりどりの絹織物をかけさせ、胡人(北方の遊牧民または西域人とされる)に無料で茶屋や居酒屋を利用させるなど、中原の豊かさを見せつけようとした。

度重なる巡幸や力の誇示による人的、財政的負担に、民衆は悲鳴を上げた。しかし煬帝はこれをいさめる臣下があっても話を聞かないばかりか、口実を設けて左遷したり、殺害することさえあった。

大業11年(615年)、再度塞外地域を巡幸した煬帝は、数十万の突厥騎兵に奇襲され、39の城を失い、雁門城に包囲された。流れ矢が目の前まで飛んで来て、煬帝は末子を抱いたまま泣きわめいたという。幸いなことに、将兵が孤立無援の中で各地からの援軍を待って32日間城を守り続けている間に、煬帝は突厥に嫁いでいた義成公主に使いを送って急を知らせた。連絡を受けた公主が、突厥で反乱が起こっているという虚偽の情報を前線に送ったため突厥軍は囲みを解いて撤退し、煬帝はようやく脱出することができたのだった。

 

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