一揆や反乱の報告を禁ずる
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江蘇省揚州の西湖鎮曹荘にある蕭皇后墓から出土した陶俑(新華社) | 晩年の煬帝は、大臣たちの反対も聞き入れず戦いに明け暮れた。大業8年(612年)、9年、11年と3度にわたって100万の大軍で高句麗遠征を行ったが、結果はそれぞれ失敗、撤退、和議締結だった。毎年のように行われる戦争は国庫に大きな負担をかけた。また、多数の戦車や船をそろえるため大勢の民衆を徴用して働かせ、食糧を徴発して運ばせた結果、民衆は悲惨な暮らしに追い込まれ一家離散する者も続出した。こうして長期にうっ積した憤まんはやがて爆発し、山東、河北、河南や江淮地区(長江下流および淮河南部地域)など各地で農民一揆が起こった。 こうした情況にもかかわらず、煬帝は3度江都(現在の江蘇省揚州市)巡幸を行い、そして最後に江都で殺されたのだった。
江都は長江の北岸にある要衝だった。煬帝はかつて揚州総管だった10年間に江都を大都市に発展させた実績があり、特に思い入れが深かった。即位後間もなく南下して江都を視察しているほどだ。
大運河が全通した後(大運河と長江は江都で合流する)、煬帝は文武百官や女官を伴い大運河を遊覧しながら揚州に下った。龍船や楼船など5100艘余りに上る大船団を組み、その船隊の長さは100キロに及んだという。船を引く人夫だけで8万人近く、近衛兵を加えると全部で約20万人が随行した。威風堂々とした巡幸は華やかでぜいたくなものだった。煬帝は、沿道250キロ以内の州と県に飲食の提供を命じ、食べきれないものは河岸に埋めた。このようなぜいたくや浪費は、沿道の官吏や民衆に大きな苦痛を与えた。
ところが、大業12年(616年)に行われた3度目の江都巡幸では、以前の華やかさはすっかり失われていた。この時、各地の一揆勢力に城や土地を奪われても、煬帝は手をこまねいて見ているしかない状態だった。北の関隴(現在の陝西省から甘粛省にかけての地域)の貴族や地方の官吏・将校も兵を起こし、覇を唱えた。このうち最も勢力を持ったのが、関中地区を地盤とする唐国公の李淵だった。李淵は煬帝の母方の従兄でもあった。長安や洛陽が安全でないと感じた煬帝は、江都に逃げ下った。
しかし、江南地区でも反乱が起きた。江都の離宮で女性に囲まれ酒びたりになった煬帝は、勢力の回復どころか、わが身さえ危ういと感じるようになっていた。それでも、平素から自分の才を頼んで周囲の忠告を受け入れない煬帝は、一揆勢力のことを聞くと絶望のあまりパニックになり、側近たちに国事を報告しないよう命じ、長安や洛陽の情報を伝えに来た使者を殺しさえした。近衛兵が煬帝のことをうわさしていると告げた女官を殺したこともあった。そしてついには、反乱を伝え聞いた蕭皇后もそのことについて口にしなくなった。
618年3月、人心が離れた煬帝が丹陽(現在の南京市)遷都を計画しているといううわさが近衛兵たちの間を駆け巡った。北方出身者が多く、帰郷したい気持ちが強い近衛兵たちは、ついに反乱を起こし煬帝を捕まえて絞殺した。煬帝はこの時50歳になっていた。そして、その知らせが長安に達すると、すぐに李淵は即位し唐を建国した。
煬帝は傑出した知力と遠大な構想を持ち、大きな功績を打ち立てた政治家だ。一方で、功名心にとらわれて臣下の忠告を聞き入れず、たびたび戦争を起こして民衆の反発を買い、部下に殺されて隋を滅ぼした皇帝でもある。このため「煬」の諡が与えられ、長く後世に希代の暴君として伝えられた。このように、煬帝は功罪相半ばする皇帝だと言えるが、今回発見された「墓」の研究が進めば、煬帝の真実の姿がいっそう明らかになるかしもれない。
隋・煬帝の墓と歴史の謎(上) なぜ「帝陵」ではなく「墓」なのか?
人民中国インターネット版 2014年6月25日
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