李鴻章が北洋艦隊創設
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天津北寧公園にある李鴻章像 | 2度のアヘン戦争で惨敗を喫し、清朝政府はようやく「天朝上国」という中国中心主義の夢から醒めた。1861年、恭親王愛新覚羅奕訢をはじめとする洋務派はさまざまな困難に立ち向かい、30年にわたる洋務運動を開始した。1870年、洋務派のリーダーの1人李鴻章(1823~1901年)は直隷総督兼北洋大臣の職に就き、北方洋務運動の重心を天津に置いたのだった。
李鴻章の業績については、研究者の間で評価が分かれる。しかし、李鴻章が人生で最も重要な25年間を天津での洋務運動に注いだことは否定できない事実だ。彼にとって、「3000年来初の大変化」に対応するためには、欧米の技術を導入するしかなかったのだ。天津は李鴻章の実験場となり、軍事面では天津機器製造局を大規模に拡張し、ドイツ人顧問を重用して海の玄関口にあたる大沽(現在の天津市内)砲台を整備し海からの攻撃に備えた。経済面では、政府の監督下で民間に経営を委託する「官督商弁」を打ち出し、天津には民需工業が次々と出現した。さらに教育面では、科挙による人材選抜を脱し、欧米への留学でより高度な学問を身につけることを奨励した。
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大沽砲台遺跡(写真・単濤) |
天津の急速な近代化の勢いで、李鴻章は極めて大きな名声を勝ち得た。清朝は洋務派の指導の下、「同治中興」(1862~74年)と呼ばれる短い繁栄の時期を迎えた。1874年、清朝は北洋、東洋、南洋の3艦隊を建設し、海軍の近代化を目指した。このうち北洋艦隊を創設したのが李鴻章だった。彼は巨費を投じて英国、フランス、ドイツなどから新式の戦艦を購入する一方、天津に北洋水師学堂を創設して、専門的な海軍人材の育成を行った。しかし、豊富な航海経験を持ち、同時にしっかりした欧米の学問的基礎を持つ中国人の「総教習」(現在の大学学部長に相当)探しは、当時李鴻章が最も頭を悩ませるところだった。
敗北を転機に翻訳へ
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天津古文化街にある厳復像 | 総教習の人選が難航している折、友人が推薦してきたのが英国留学から戻った厳復(1854~1921年)だった。彼は福建省の福州船政学堂で学び、成績優秀のため公費で英国に留学生として派遣され、航海術を専攻した。1880年、李鴻章は彼を正式に総教習に登用した。厳復は就任するとすぐに欧米の近代的海軍管理理念や指導理論を導入し、多くの人材を育成した。間もなく、厳復は同学堂の全権軍事長官に昇進した。当時、人々は厳復の下の北洋水師学堂を「北方の時代を切り開き、中国兵艦の根本を築く」と評した。
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かつての北洋水師学堂跡に建てられた軍事交通学院(写真・単濤) | しかし、続く甲午戦争(日清戦争)において北洋艦隊が壊滅したのも事実であり、これは厳復を深く傷つけることになった。彼は、欧米の艦船や兵器に頼るだけ、いくつかの海軍学校を作るだけでは清朝の長年にわたって形成された衰退状況を変えることはできないと痛感し、欧米の思想を中国に持ち込み、知識階級に対して思想啓蒙を行ってこそ、国家の富強はなせると考えるに至った。
こうして厳復は、後半生ではその精力を欧米の権威ある著作の翻訳に注いだのだった。ハクスリーの『進化論と倫理学』、アダム・スミスの『国富論』、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』、モンテスキューの『法の精神』など、欧米の政治、経済の基礎となった名著を次々と翻訳し、天津から中国各地に広めた。同時代の康有為、梁啓超、後の毛沢東、周恩来などは彼の翻訳によってこれらの著作に触れ、世界に目を開き、それぞれの立場から存亡の危機にある祖国を救う道を探ったのだった。
厳復が人材育成に打ち込んだ北洋水師学堂は、1900年の義和団の乱で列強8カ国連合軍が天津に侵入した際に失われてしまった。しかし、彼が近代の啓蒙に尽くした功績は朽ちることなく、現在も中国の民衆に語り継がれているだけでなく、日本の研究者からも「中国の福沢諭吉」と高く評価されている。
人民中国インターネット版 2015年5月25日 |