愛国運動の最前線
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若き周恩来と鄧穎超 |
厳復が訳した欧米の著作は、中国近代思想に希望の光をもたらし、多くの青年の心に存亡の危機にある祖国の救済と近代国家建設に対する情熱の炎を植え付けた。その中には天津でお互いを知った周恩来(1898~1976年と鄧穎超(1904~92年)夫妻もいた。
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南開中学(元南開学校)の周恩来記念館 |
周恩来の原籍は浙江省の紹興で、生まれは江蘇省の淮安だ。1913年に伯父に従って天津に移り、全国に名を知られる名門の南開中学に入学した。開放的な天津は、彼を欧米の先進的思想に触れさせただけでなく、中華民族が存亡の危機にあることを深く感じさせた。1919年に日本留学から戻ると、彼はリーダーとして愛国大衆運動である五四運動に参加する。『天津学生連合報』主編だった彼は、「飛飛」「翔宇」などのペンネームを使い、さまざまな新しい思想を取り入れ、学生運動に声援を送った。
学生運動をより良く組織するため、周恩来は他の青年たちと天津学生愛国運動の中心となる組織「覚悟社」を結成する。覚悟社は「革心」(主観的世界の改造)と「革新」(客観的世界の改造)を主張し、不定期刊の『覚悟』を発行した。周恩来の指導の下、天津はたちまち当時の学生愛国運動の最前線となった。そしてこの時期に、彼は理想と関心を同じくする鄧穎超と出会ったのだった。
海外にいても心は天津に
新時代の思想の薫陶を受けて周恩来は1920年にフランス留学に旅立った。鄧穎超は国内にとどまって、引き続き学生運動に参加した。欧州での4年間、2人の間をつなぐのは手紙だけだった。彼らは手紙で国内外の情勢について語り合い、人生の理想についても書きつづった。お互いに理想と信念を絶えず確認する中で、周恩来と鄧穎超は魂の伴侶となっていった。
周恩来はまた、第二の故郷と考える天津のこと、かつて共に闘った覚悟社の仲間たちのことも忘れてはいなかった。彼らは頻繁にフランスの周恩来から送られてくるガリ版刷りの『覚郵』(覚悟社のポストの意味)を受け取った。これは彼が編集したもので、欧州での革命と闘争についての討論の成果と学習で得たものを記録していた。新しい知識を渇望する天津の青年たちはこの刊行物を通じて、外の広い世界をよりはっきりと知ったのだった。
骨箱は一つで十分
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周恩来、鄧穎超夫妻の骨箱 | フランスから戻った周恩来は、すでに中国共産党の中核的一員になっていた。1925年に2人は結婚したが、党の革命抗争に打ち込むため長く離れて暮らした。その後、2度にわたる国共内戦、全民族による抗日戦争は、天津を2人にとって帰りたいけれど帰れない故郷にした。新中国成立後、国務院総理となった周恩来は内政、外交に多忙な中、何度も妻の鄧穎超を連れて天津を視察した。常に夫婦は天津の発展を気にかけていた。
1976年1月8日、新中国のために献身的に力を尽くしてきた周恩来はガンに侵され、治療の甲斐なく帰らぬ人となった。鄧穎超は周恩来の遺言を尊重し、北京の万里の長城と密雲ダムの上空、黄河の河口、そして天津海河の河口に散骨した。その後、周恩来の骨箱は鄧穎超が保管した。彼女は「私が死んだ後はこれを使ってください。遺灰を骨箱に入れたなら、間もなく散骨してください。骨箱は単なる形式であり、こだわる必要はありません。2人で一つを使えば十分です」
鄧穎超が亡くなった後、人々は彼女の遺言通り遺骨をその骨箱に収め、天津海河に散骨した。16年の時を隔てて、共に半世紀を過ごした親密な伴侶は、かつて知り合った第二の故郷で再び一緒になったのだった。
2人の偉人が共用した骨箱はその後天津市周恩来鄧穎超記念館に収蔵された。記念館のスタッフによれば、毎年100万人を超える来館者がここでこの貴重な骨箱を見て、2人をしのぶという。
人民中国インターネット版 2015年5月25日 |