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銀幕に桜の花の散り落ちる

――日本映画の桜に見る中国との美意識の違い

 

王衆一=文

 

 

――この文では5作品の日本映画に描かれた桜を通じて、日本人の内心の美学と情感の世界をのぞき見ていこうというもの。銀幕に雪のようにこぼれ散る桜は、われわれが日本人独特の「心象風景」をとらえる手助けになるかもしれない。先ごろ発行されたムック『知日』の「桜花入魂」号に掲載されたものの日本語訳を、知日編集部の許諾を得て、人民中国の公式ページに掲載させていただく。

 

日本人が桜の花に対して特殊な敏感さを持つのは、彼らが最も桜の花の美しさを知っているからだ。日本人は代々各種の異なった桜の品種の育成に務めてきただけでなく、煩をいとわず浮世絵、小説、写真、散文、ニュース報道を通じて、さまざまな観点から数多い桜の品種の優美さを描写、表現している。一般の日本人が桜の花に気持ちを託すという美意識は、すなわち桜の花を通じて自分の共同体におけるアイデンティティを確認することを示している。

筆者は1990年代に日本で学んだ時期に、東京の上野で日本人が桜の木の下で酒を飲み騒ぐ様子、隅田川に浮かぶ舟の上から夜桜見物を楽しむ場面を観察したことがある。しかし、筆者が最も深く触れたのは、日本人の映画を通じた桜の花の描写だった。あるいは銀幕の中の桜の花を通じて、日本人の心の中の美的感覚と情感の世界、喜怒哀楽をよりいっそううかがい知ることができると言えるだろう。舞い散る桜の花に付託された日本人の「心象風景」は、銀幕を通じてわれわれの前に示されている。

 

フィルム映画の中の桜

1980年、前衛映画を代表する人物として知られる鈴木清順は、日本映画史上に重要な1ページを刻んだ「大正浪漫三部作」の一つ『ツィゴイネルワイゼン』を発表した。

 

同時期の前衛映画監督である寺山修司同様、鈴木清順は戯劇の伝統によって映画を演繹することに熱心だった。この「映画歌舞伎」と呼ばれるスタイルの作品の中では、西洋建築とたたみ、洋服と和服など大きなコントラストを一つにして複雑にからめており、空いっぱいに舞い散る桜の花は、とりわけ心に深い印象を残す。

繰り返し流浪と情欲というテーマが表現されるこの作品は、中砂と青地という二人の男の深い絆や多くの女性たちの間の複雑な関係を描いている。青地は中砂の放浪生活に目撃者として立ち会い、語り手としてこまごまとした断片で構成された物語を結びつけている。

感情の高まりは、青地と妻の周子の異化作用あふれる舞台劇式のシーンで描かれている。中砂が死に、青地の妻・周子と青地が電話で話す。実際には別の場所にいる青地と周子はこの時に画面の中の窓の両側に立ち、強い風が吹いて、たくさんの桜の花びらが窓の外を密集して舞い散り、二人の穏やかならぬ心の内を際立たせ、また突然亡くなった中砂を象徴し、観客は心を動かされるのを禁じ得ない。ここで桜の花が舞い散るのは、舞台道具的な効果をよく備えており、濃厚でし烈だ。

 

一方、中原俊が1990年の漫画を原作として創作した作品『桜の園』の中に現れる桜の花はまた異なったスタイルだ。

 

 

ある女子高の校庭には桜の木がいっぱいに植えられており、4月の開花時期には校庭が一面のピンクの花に包まれ、まるで桃源郷だ。女子高生たちは春の創立記念日にチェーホフの舞台劇『桜の園』を演じることになっており、映画で描かれるのはその演劇が演じられる前の2時間の物語だ。

女子高生たちの微妙な関係と感情のもつれ、彼女たちの心の中の世界が、校庭の雲や幻のような桜の花という背景を通して、素晴らしく共鳴するリズムを形作っており、物語を次第にクライマックスに向けて導いている。ここでは、桜の花は青春の息吹を感じさせ、女子生徒の集団と桜の花房が極めて象徴的な意義を持つ共同体になっている。

 

同様に、4月の開花時期の青春を描いているのが、岩井俊二が1998年に撮影した『四月物語』で、こちらは一人の女子学生の物語だ。これは松たか子の初主演作だ。

 

 

ヒロインの卯月は雪深い北海道から身一つで東京の武蔵野大学に入学するためにやって来る。すでにどこも桜の花が満開の東京で、彼女は自転車に乗って見知らぬ都市で一人きりの学生生活を始める。内向的で恥ずかしがり屋な彼女にとって未知との遭遇が始まる。個性の強い同級生、慎重で警戒心の強い隣人、挙動の変わった通行人などと交流するのだ。とても普通の物語、普通の風景だ。

桜の花がはらはらと散り落ちるのを見て、人生のロマンと気楽さを味わう。これこそ岩井俊二の目に映る青春映画だ。ゆったりとしたリズム、平淡なプロット、だが、耽美的な画面がたびたび見る人を驚かせる。桜の花びらが敷き詰められたような小道を自転車が駆け抜けるシーンですでに心を酔わせるが、筆者が最も忘れがたいのは、卯月が桜が満開の道端に立って引っ越し会社のトラックが走り去っていくのを見送り、何気なく襟に落ちた花びらをふるい落とす一瞬だ。この画面はまるで一つの散文詩だ。

 

 

映画の最後では、雨が降って桜の花が散り尽くし、やがて夏が訪れようとしている。東京に来て間もない卯月の恥じらう青春の徘徊は終わり、4月の物語はあっという間に幕を下ろす。美しい物語はたやすく失われ淡い感傷を残す。監督が用いた桜の花の背景が全てを余すところなく物語っている。

以上3作品は20世紀が残した桜に関するフィルム映画で、画面は重厚で幾分もうろうとしている。そして21世紀に入って映画はデジタル時代になったが、桜の花の描写もいささか変化と進化をしただろうか?

 

 

デジタル映画の中の桜の花

新海誠は21世紀の寵児だ。デジタル映画とアニメ映画デジタル技術の進歩は、いずれも彼にその想像をいっそうきめ細かく展開する余地を与えた。彼の物語の世界という点では宮﨑駿の世代に比べてはるかに単純だが、歴史の重荷がなく、手を変え品を変え少年少女間の可愛らしい純愛を描いている。岩井俊二の『四月物語』が彼にインスピレーションを与えたのかどうかは分からないが、彼が2007年に発表したアニメ映画『秒速5センチメートル』は、出会いと巡り合いが、桜の花が爛漫と咲き誇る4月に設定されており、同工異曲の妙がある。

 

 

この三つの短編からなる作品の第1話が『桜花抄』だ。桜の花が雪のように降り注ぐ春の日差しの中、小学生の貴樹と明里が道を行くが、明里は歩きながら貴樹に、桜の花びらが舞い落ちる速度は毎秒5センチメートルだと話す。

 

 

冬の日に、貴樹は東京を離れて鹿児島の学校に転校することになり、明里に別れを告げようとする。突然の大雪が降ったため夜中になってようやく駅で会うことができた二人は、雪が舞い落ちる夜に、再会を約束して桜の木の下でキスを交わす。すっかり枯れ一葉も残らない桜の木と満天の雪は二人のもうろうとした別れの悲しみを象徴している。貴樹は鹿児島で成長するが、長い夏が過ぎても、心の中で思うのはやはり明里のことだった。何年もして、彼は再び東京に戻る。

 

 

短編の第3話が『秒速5センチメートル』だ。すでに社会人になった貴樹は一人ぼっちだ。東京はまた桜の花が雪のように舞い散る4月を迎えた。窓の外からひとひらの桜の花が舞い降りて来て、静けさを打ち破り、貴樹をゆううつにさせる。次々と桜の花が散り落ちる踏切で、貴樹は一人の女性とすれ違う。直感が彼に告げる、彼女が振り返ってこちらを見ることを。しかし通過する電車が二人の視線を遮る。そして実際には物語はすでに、成年した明里はほどなく別人と結婚することを説明している。

 

 

ゆっくりとした秒速5センチメートルという速度は、13年の離れ離れの長い年月の中で、二つのぴったりと寄り添った心を、地球上で最もはるかに遠い距離、南極から北極までの長さに変えてしまった。ぼんやりとした初恋は、思い切れない憂鬱は、こうして舞い散る桜の花びらによって際立たせられ、首尾呼応して余すところなく表現されている。

「何れの処かまさに愁いを成すべき、離人心上の秋」。中国人は往々にして憂いの心と秋を結びつけるが、日本ではなんと、離愁は春の桜の花と結びつけて連想できるのだ。深く考えてみると、これは日本人にとっての「美」が無常の「もののあわれ」という美意識と密接に関係しているためだろう。秒速5センチメートルと言えば、筆者はまた一つ面白いエピソードを思い出す。1980年代、中国のバレエ『絲路花雨』の日本公演が行われた際、日本側はこれを『シルクロードの花吹雪』と翻訳したのだ。中国人の想像の中の「花雨」とは、極楽世界の無重力状態の下で全ての花が天から降り注ぐ境地を意味するが、日本人の美的感覚では、雪のように舞い散る桜の花こそ彼らのイメージにふさわしいのだ。なんと、新海誠は、桜の花の舞い落ちる速度が毎秒5センチメートルであることまで測定・算出してしまった!

もう一部、桜の花が一緒にいる時が短く離れ離れの時間が長いという人生の悲劇に関わるのが、2010年の廣木隆一監督作品『雷桜』だ。

 

 

一人は山奥で育ち愛とは何かを知らない少女遊(蒼井優)、もう一人は名門の武家で恵まれた育ちをしたが愛を信じない清水斉道(岡田将生)。二人の全く身分の異なった男女が、枝葉の茂る桜の木が縁で恋に落ちる。

 

 

しかしながら、二人は運命の罰を受け結局一緒になることができない。清水斉道は人生が尽きる時、山地の遊を思い出す。この時、彼と遊の間にできた子どもはすでに成人しており、老いた遊とその子は満開の桜の木の下で寄り添い、たくましく暮らしていた。

 

 

この映画の中では、一面の緑の中で唯一満開の桜の木が愛の強さと生命力を象徴しており、盛衰の交替場面はまた運命の無常を象徴している。

銀幕の中の桜は、形態は異なるが、壮大で美しい。雪のように舞い散る桜は、銀幕に降り注ぎ、観客の心に舞い落ちて、桜の花の美学と情感世界を教えてくれる。まさに、落花の美しきこと雪の如く、一花一世界である。

 

 

 

 

 王衆一

  

人民中国雑誌社総編集長。中国世界映画学会理事、中国映画人協会会員、中国語訳書に『日本电影100年』『创新激情(1980年以后的日本电影)』(いずれも四方田犬彦著)など。

 

 

 

 

 

カバー写真:佐渡多真子

映画シーン:ネットより

 

 

人民中国インターネット版  2017年4月10日

 

 

 

 

 

 

 

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