多言語で毛沢東や古典を発信 中国外文局が70周年

2019-09-16 13:44:42

杜羽、劉彬=文

 

中央人民政府新聞総署国際新聞局

 1949年10月1日の新中国成立当日、中国外文局の前身である中央人民政府新聞総署国際新聞局も成立した。後に外交部部長(外相)となる喬冠華が局長、劉尊棋が副局長、馮亦代が事務長を務めた。詩人の戴望舒、記者の蕭乾、翻訳家の楊憲益が参加し、ジャーナリストのエプスタイン、翻訳家のシャピロ、ジャーナリストのワイスが参加した…。

 皆が優秀な人材で、中国の古今について余すところなく翻訳した。新中国の対外出版発行事業はここから始まった。

 70年が過ぎ、人民中国雑誌社、人民画報社、北京週報社、中国文学雑誌社、外文出版社、チャイナネットなど、名声のとどろく組織がここで生まれてきた。また、『毛沢東選集』『習近平 国政運営を語る』『孫子』『本草綱目』『紅楼夢』など、中国の物語を伝える多言語書籍がここから世界へ向かっていった。

 

18年かけた『毛沢東詩詞』

 1949年初め、詩人の戴望舒が香港から大陸に戻った。数カ月後、彼は詩歌の創作を一時的にやめ、組織されたばかりの新聞総署国際新聞局フランス語チームに心身の全てをささげた。資料や設備が足りなければ、自分の辞書や印刷機を持ち出した。人手が足りなければ、四方八方に頼んで適任者を探した。そのころ、毛沢東の『人民民主主義独裁について』の翻訳は最も差し迫った任務だった。重いぜんそくを抱えていた戴望舒は時間を節約するため、自分でエフェドリンを注射して病状を和らげることを身に付けた。

 

戴望舒(1905~1950)、浙江省杭州市出身

 間もなく「外文出版社」の文字を印刷したフランス語版『人民民主主義独裁について』が英語版やインドネシア語版と同時に出版され、『人民政協文献』の英語版、フランス語版、ロシア語版も出版された。

心と力を凝集した『人民民主主義独裁について』の翻訳にかかったのはわずか数カ月だった。丁寧に仕上げた『毛沢東詩詞』の英訳には十数年の時間がかかった。

 雑誌『中国文学』英語版は1958年から毛沢東の詩と詞の英訳を掲載し始めた。1960年代初め、単行本出版を目標として、喬冠華と銭鍾書、『中国文学』副総編集長の葉君健らによる毛沢東詩詞英訳定稿グループが設立された。後に、趙樸初も加わり、英語専門家スール・アドラーの助けを借りて訳文に手を入れた。グループのメンバーは訳文を持って自ら上海や南京、長沙、広州などへ行き、討論会で繰り返し一つ一つの詞、一つ一つの言葉を吟味した。

 

1940年、葉君健(左端)、エプスタイン(左から2番目)と

チョムリー(左から3人目)などが香港にて

 最終的に『毛沢東詞詩』の英訳本が出版されたのは1976年のメーデーだったことを葉君健は年月を経てもはっきりと覚えている。この時、毛沢東の詩と詩の英訳を初めて掲載してからすでに18年が過ぎていた。

 

 指導者の著作や共産党、政府の文献を翻訳・出版することは、中国外文局が70年来一貫して担い続けてきた栄えある使命だ。
 2014年10月8日、フランクフルト・ブックフェアが開幕し、この世界最大のブックフェアに初めて『習近平 国政運営を語る』が登場した。中国国務院新聞弁公室が中国共産党中央文献研究室、中国外文局と編集したこの書籍が、正式に外文出版社によって中国語、英語、フランス語、ロシア語、アラビア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、日本語などの多言語で世界に向けて出版されることをこれは意味した。統計によると、2019年7月までに『習近平 国政運営を語る』はすでに28言語の32バージョンが出版され、海外での発行は160余りの国・地域をカバーし、国際社会が中国を理解するための権威あるテキストになっている。

 

文学作品を体系的に英訳

1952年、幾つかの組織が翻訳家の楊憲益と彼の英国人妻グラディスと仕事をすることを望んでいたが、それでも劉尊棋の計画は彼らを感動させた。

 楊憲益は自伝の中で次のように回想している。「中国文学の全ての主要作品を体系的に英訳する構想を彼らは早くから持っていました。彼は私がこの計画を取り仕切るよう望んでいました。私は『専門家』の身分でどの作品を翻訳・出版すべきかを決定し、何冊かの本を選んで自分が翻訳するよう残せるほか、私がこの任務をやり遂げるのを戴乃迭(グラディスの中国名)とほかの若い編集者、翻訳家が助けてくれるのです。私は将来の非常に長い歳月をこうした仕事に使うという考え方がとても気に入りました」

 

楊憲益、グラディス一家


 楊憲益夫妻はすぐさま荷物を整理し、家を売り、一家で南京から北京へ引っ越した。それ以降の半世紀余りにわたる翻訳人生の中で、楊憲益とグラディスは協力して『楚辞』『関漢卿雑劇』『紅楼夢』『老残遊記』『魯迅選集』など、先秦から現代までの中国文学の名著100作余りを英訳した。

 

外国人専門家延べ2000人

 1951年のある日の午前、人民中国雑誌社の静かな中庭に突然笑い声が響き、英語の会話が続いた。

 

1930年代のエプスタイン

 1組の外国人夫妻が事務室に入ってきた。林戊蓀に強い印象を与えたのは、女性の方が長身で、男性が小柄で、強烈な対比を成していたことだった。これがエプスタインと夫人のチョムリーだった。

 エプスタインはポーランド生まれで、米UP通信(現UPI通信)の中国駐在記者を務めた。この時、彼は宋慶齢の招きを受けて北京に来て、雑誌『中国建設』の英語版の創刊に関わっていた。普段、わずかな時間を見つけて『人民中国』編集部にも行き、原稿を手直ししていた。互いに慣れ親しんだ後、皆は彼をエプと呼んでいた。

 林戊蓀は「当時、私と多くの同僚はとても若い新米記者でしたが、彼はベテランのジャーナリストでした。私たちに共通する彼の印象は、博識で見聞が広く、優しく親切で世話好きというものでした」と振り返る。エプスタインは改稿が速く巧みだっただけでなく、しばしば対外宣伝業務に自分の見解を示した。「ある時、彼が私たちの一部の特集記事に異なる意見を示したことがありました。特集記事は細部においても絶対に真実でなければならず、何の虚構もあってはならない――。このような的確な指摘に、私たち駆け出しの新米記者は大いに啓発されました」

 四年前、還暦を過ぎた菊池秀治が中国外文局に来て、多くの外国人専門家の一人になった。30年以上の翻訳経験があるにもかかわらず、翻訳原稿に対し、依然いささかも揺るがせにするところがない。事務机の日本語辞書は頻繁にめくるため、すでに少しぼろぼろになっている。出版されて間もない日本語版『中国速度―中国高速鉄道発展の現地レポート』の奥付を開くと、「日本語改稿:菊池秀治」とはっきり印刷されている。彼の一挙手一投足にはこの仕事に対する情熱があふれ、さらに中国に対する深い思いが現れている。

 中国の物語をしっかりと伝え、中国を世界に説明するには、中国人の貢献も必要であり、こうした外国人専門家の智慧も欠かせない。1949年からこれまでに中国外文局は外国人専門家延べ2000人を招聘(しょうへい)してきた。中国外文局は中国で外国人の文化・教育専門家を招聘してきた最も規模が大きく、最も歴史のある組織だ。

 現在の中国外文局はすでに14カ国・地域に26の駐在機構を設立し、世界30カ国の出版機構と協力して50余りの「中国テーマ図書海外編集部」を共同開設し、ポーランドやペルー、タイなどの国と協力して10カ所の中国図書センターを共同建設し、毎年40種余りの言語で5000点近い書籍を出版し、13言語で34点の定期刊行物を編集し、出版物発行は世界180余りの国・地域に広がっている。

              中国外文局 

 時は流れ続け、翻訳は続き、出版は続き、中国外文局の物語は絶え間なく続いていくだろう。

 

  

 

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