写真集『中日関係180年』の啓示――出版元の博源基金会・何迪主幹に聞く

2019-11-14 13:35:35

王衆一=聞き手 博源基金会=写真提供

 

 

何迪

南京出身、中国人民大学卒、米ジョンズホプキンス大学大学院修了。2008年に博源基金会を創設、主幹を務める。現在、UBSグループ投資銀行副総裁兼UBS証券会長。(写真陳克/人民中国)

 

新中国成立70周年を盛大に祝った中国は来年、アヘン戦争(1840~42年)からちょうど180年を迎える。これを記念して昨年、写真集『中日関係180年』を出版した香港の非営利公益法人「博源基金会」の何迪主幹に、本誌王衆一総編集長が出版の経緯などについて聞いた。

 

アヘン戦争からの道たどる

 

――博源基金会は昨年、写真集『中日関係180年』を製作しましたが、なぜ180年という時間枠で両国関係を捉えたのでしょうか? こうした視点はこれまでありませんでした。

 

 何迪 アヘン戦争は、西洋の勢力が東アジアに進出した象徴的な出来事です。来年は、そのアヘン戦争からちょうど180年となります。近代における中日の恩讐とは、結局のところ、西洋の勢力が東アジアに進出後、侵略という衝撃を受けた中日両国が近代化の道を選ぶ中で起きたものです。両国の歴史のマイルストーン的な中日平和友好条約締結40周年の昨年に、歴史を整理し、両国の素晴らしい未来を開くために、アカデミックな意義を持つものとしてこれを企画し出版したのです。

 

――この写真集は、単に友好や対立だけではなく、歴史の形成過程における各方面の駆け引きも表しています。どのようにしてこれだけさまざまな角度から、しかも重要な写真を集められたのか、とても興味があります。

 

  確かに手間がかかった作業です。多くは、個人の所有から提供していただいたものです。例えば廖承志(1908~83年、中国の政治家、対日業務の責任者)氏のアルバムの写真は、私たちがもらってきたものです。また、現場の記録者からもらったり、あるいは当事者の親類からもらったりしたものも多くあります。これが、ご覧になったあまり知られていない写真の出所です。また、世界各地のコレクターからも写真を買いました。日本の毎日新聞は、かつて昭和史のムック本をシリーズで出していましたし、日中友好団体の貴重な資料写真や、貴誌『人民中国』や外文出版社の書籍からも借りました。遼寧省の撫順にあった戦犯管理所の写真資料や、日本側が製作した中日工業展覧会のアルバムの写真、さらに香港の写真資料も含め、できる限り集めました。

 

――なぜこれほどまで力を入れて『中日関係180年』を作ったのでしょうか? 先ほど何さんは、写真集の収録範囲を180年とした点について、西洋勢力の進出で東アジア全体が試練にさらされたことを考えるのがきっかけと話されました。では、写真集全体の構成は、どのように考えましたか?

 

  博源基金会は非営利的な公益団体で、中国の経済や社会、国際関係の中長期的な問題に着目し研究しています。先ほどもお話しましたが、中国と日本は、中国が近代化に向かう過程で避けて通れなかった存在であり、関心を払う必要があります。だから、西洋勢力による東アジア進出という大きな歴史の視座から中日関係を捉えて考えれば、将来に非常に有意義な結論を導き出すことができると考えました。作業を始めた頃には、日本の学者にも意見を求めましたが、結局全体の構成は四つの大きな章に分けました。

 

学びから対立、そして戦争

 

――四つの大きな段階に分けた後、各段階の重点をどのように表していますか? 今まで第1段階を巡る中日関係の討論は少なく、この写真集はなぜこの部分に力点を置いて展開したのですか?

 

  それについて詳しくお答えします。第1段階の重点は、西洋によって国の門戸が開かれた後、両国が西洋の近代化を学んでいく過程です。異なる道、異なる態度は異なる結果をもたらしました。私は、1905年の日露戦争が転換点だったと考えます。すでに1895年から、こうした学習過程の違いが見て取れます。制度の面での徹底的な変革を通して国民国家を成立させる過程で、日本はかなり巧みに学んでいます。それに比べ中国は、清王朝末期の硬直化と腐敗、専制により異なる結果となります。1895年の時点で、中国の軍事力は日本と比べて劣っていなかったものの、負けてしまいました。続く1904~05年の日露戦争で日本は中国だけでなく、西洋のロシアも打ち負かしました。これに中国人は強烈な衝撃を受けました。甲午戦争で惨敗した中国は、その後、西洋から東洋(日本)に学ぶ先を変えました。日本に学ぶことは中国の近代化へのモデルチェンジ、特に新文化運動と共産主義思想の普及を促す力となりました。

 

19世紀末から20世紀初めにかけ、日本との人と文化の交流は、中国での新文化運動とマルクス主義の普及を促した

 

――第2段階の部分は、第1次世界大戦の勃発から日本の敗戦までの30年です。主な内容は、20世紀前半の中日両国の敵対が中心となるでしょうか?

 

  第1次大戦の勃発は、現在いわれる未曽有の「世紀の大変動」の始まりでした。1915年から45年まで、日本がどのように帝国主義の道を歩んだかを顧みます。「二十一カ条」の秘密協定が、その後の「五四運動」の起爆剤となりました。「九一八事変」(満州事変)、「七七事変」(盧溝橋事件)を経て、反欧米の「大東亜共栄圏」を隠れみのに、中国をその手中に収めようともくろみましたが、実際は帝国主義の行為そのものでした。中国の一部の利益の略奪から、次第に局部的な戦いとなり、ついに全面戦争となりました。日本は欧米列強を追い越し、帝国主義の先駆けとなりました。中国では、「九一八事変」の部分的な抗戦から「七七事変」後の全面的な抗戦が41年まで続き、太平洋戦争の勃発後、米英ソなどと組んで国際的な反ファシスト同盟を結成しました。

 

抗日戦争での八路軍の捕虜優遇方針と在華日本人反戦同盟は、反ファシズム統一戦線の拡大に役立った

 

抗日戦争後に続く解放戦争で、日本人の解放軍兵士は目覚しい活躍を見せた

 

――その30年に、日本の侵略の影響を受けた中国は、近代的な民族国家へのモデルチェンジを完成させたのですね。

 

  そうです。1915年から45年までの日本との長い闘いの中で、民族国家の結束、中華民族共同体というコンセンサスが最終的に出来上がったのです。想像を絶する戦争の苦難を経て、中国はカイロ宣言により台湾を取り戻し、戦後は国連の五大常任理事国に加わりました。従って、この段階の重点は戦争ではありますが、強調したいのは、中国がいかに国家の主権と独立、領土保全、民族団結を成し遂げ、国際社会が認める一員になったのかということです。日本の中国侵略における残虐行為や植民統治、かいらい政権の擁立などを説明すると同時に、「反戦同盟」など戦時における反戦主張や、戦後に中国の建設を手伝った日本人についても言及しています。このように、この時期の全貌を客観的に反映するよう試みました。

 

中日平和友好条約締結40周年を記念し出版された本写真集の表紙には、鄧小平と福田赳夫が並び手を振る写真が使われた

 

和解から改革開放の協力へ

 

――その後は私たちがよく知っている段階ですね。多くの写真展や写真集で、この時代の歴史は語られています。この写真集としては、どのような点に重きを置いているのでしょうか?

 

  この段階は1945年から始まります。極東国際軍事裁判による軍国主義への清算はもちろん、日本の戦争捕虜と孤児の送還についても紹介しています。しかし、その後の冷戦勃発により、中国は国家の統一を果たせませんでした。サンフランシスコ条約などから始まり、中日間の後に残された一連の歴史問題が出てきました。この章で特に強調しているのは、周恩来総理と廖承志氏が指導した中国の対日活動です。この部分では、特に劉徳有氏から提供していただいた貴誌『人民中国』の写真を使っています。毛沢東と周恩来は対日活動を非常に重視していました。統計によれば、二人の外国人賓客との会見は千回にも及びますが、うち70%は日本人でした。周恩来を含む20世紀初めの多くの日本留学経験者が活躍し、要職にあった多くの日本通の幹部が対日活動の鍵となる役割を果たしました。この時期の中日関係は、民間が先行し、民が官を促し、そして官と民が手を携え、最終的に国交正常化までたどり着くという歴史の流れをたどりました。もちろん、この間には長崎国旗事件も起きましたし、日本政府と蒋介石政権との往来や日米の新安保条約なども写真集で扱っており、この時期の道のりが決して平坦ではなかったことを示しています。

 

新中国成立後、毛沢東と周恩来が接見した外国人賓客の70%は日本人だった

 

中日青年交流センターの定礎式で鍬入れをする当時の中曽根首相(左端)と胡耀邦中国共産党中央委員会総書記(右端)(1986年)

 

天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后)の訪中は、戦後の中日関係の一つのピークを象徴するものだった(199210月)

 

――第4段階は、ほぼ今日まで続いています。時間のスパンとしては、これまでの中国改革開放の歩みと、日本の冷戦後の台頭、そのピークと構造転換までを含んでいます。この時期の歴史は、今後の中日関係の発展にどのような現実的な意義があるでしょうか?

 

  冷戦の後期からグローバル化時期まで、この時期の中日関係の発展は大きく二つに分けられます。一つは1972年の中日国交正常化、さらに78年の平和友好条約の締結、そして92年、当時の天皇皇后両陛下(現上皇上皇后)の訪中まで。この間の中日関係は、かなり前向きな発展時期と言えるでしょう。この時期の中国は、日本の経済発展、特に産業政策面での経験を懸命に学びました。72年からは日本よりプラント設備の導入が始まりました。その後の中日協力は、70年代末から80年代初めの宝鋼(宝山鋼鉄)から海上油田開発まで目覚しい発展を遂げました。上海から九州の熊本県までの東海海底ケーブル敷設工事も、この時期に完成しました。この時期は学習協力が主流で、海洋や諸島の領有権を巡る論争はあったものの、大局に影響を与える要因になることはありませんでした。写真集では、プラント設備の導入や、中国での日本の商品の販売、ODA(政府開発援助)による中国の近代化建設への支援、多くの専門家によるさまざまな分野での大きな手助け、中日友好病院、中日21世紀青年交流センターなど協力事業の紹介に重点を置いています。日本は85年に米国の圧力でプラザ合意を結び、為替レートが上昇し、市場が開放されました。日本はその後、2030年にわたる長い経済構造の調整と高度化という苦難の時期に入りました。しかし、その中にはバブル経済の教訓もあれば、資本の輸出と社会のバランスの取れた発展、貧富の格差の縮小、自然環境の保護、社会の安定の実現といった面での経験もあります。これらはいずれも、現在の中国が参考として学べるものです。この部分を編集しながら、いろいろ考えました。新たな時代においては、中日間の積極的な相互学習に期待すべきだと思います。この写真集の目的は結局、中国の近代化をさらに推進するところにあります。ですから、歴史問題に正しく対処すると同時に、相手の長所を互いに取り入れることが大事です。その意味で、この写真集を「日中不再戦」(中日は再戦せず)という石碑の写真で締めくくったわけです。 

 

杭州で開かれたG20サミットで安倍首相を迎える習主席(右)。両国の人々は新たな中日関係の訪れを期待した(2016年)

 

――現在の中米貿易摩擦の状況下で、この写真集は単に温故知新という意味だけではなく、「温故創新」という意義があります。出版後の反響はいかがですか?

 

  基金会が行うのは公益事業ですが、この写真集の価値を認めた大企業から次々と購入の申し込みが来ています。IT企業のファーウェイだけで1000冊の予約がありました。

 

――今後とも見識ある人々がこの写真集を見て、啓発されることを祈っています。今日はありがとうございました。

 

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