教育で振興 世界へ飛躍――南開大学創立100周年

2019-11-13 09:50:17

李家祺=文

今から150年余り前、はるか海を越えて欧州を視察した福沢諭吉は、「まず当面、日本が急ぎやらねばならぬことは、富国強兵であります。富国強兵の基本は、人物の養成にあります」と手紙に書き、教育による発展を目指し始めた。海を隔てた中国で、近代に各大学が歩んできた道も、国家や民族の運命と密接な関わりがあった。

人材を育てて国を救い、教育事業を興して国を強くすることを目的に、1919年、天津南部のくぼ地に南開大学が誕生した。今年1017日、同大学は100歳の誕生日を迎える。

 

1919925日に開学した南開大学の教師と第1期生たち。最後列の左端は周恩来、2列目の右から7人目は張伯苓、同9人目は厳修(写真提供・南開大学)

 

「中国を知り、中国に奉仕する」

 南開大学の創立は、当時戦乱の中にあった中国の国運と深く関わっている。

 1898年の威海衛(現在の山東省威海)で、中日甲午戦争(1894~95年)後も占領を続けていた日本軍が撤退し、黄龍旗(清の国旗)が掲げられた。ところがすぐに黄龍旗は降ろされ、威海衛を租借する英国のユニオンジャックが掲げられた。

 海軍の人材養成学校である北洋水師学堂を卒業し海軍にいた張伯苓(1876〜1951)は、この「国旗三変」事件に大きな屈辱を受けた。そして、中国を救うには必ず教育から始めなければならない、と痛感した。

 張伯苓はこの年、新学(西洋の学問)を提唱する厳修(1860〜1929)と天津で知り合った。厳修は張伯苓より16歳も年上だったが、二人は「自国を強くする道は教育以外にない」という共通した理念ですぐに意気投合した。張伯苓は厳修の設立した厳氏家塾に招かれて教壇に立ち、これが南開大学の前身となった。

 厳修は清王朝での官位と好待遇を捨て、教育に打ち込んだ。私塾の設立に続いて、彼はまた天津で初の女子学校となる厳氏女学を開いた。さらに1904年、厳修と張伯苓は共同で私立中学堂を創設した。

 しかし、大学の設立こそが厳修と張伯苓の宿願だった。

 第1次世界大戦の硝煙がようやく晴れた19年、見渡す限り傷だらけの世界が現れた。長年にわたって衰退を続けていた中国は、パリ講和会議で帝国主義による国土分割の危機に直面した。国内では、外国から国家主権を奪い返そうという五四運動の大きなうねりが巻き起こった。

 私立南開大学はちょうどこの年に誕生した。張伯苓が学長を務め、厳修は「建学の父」として敬われた。開学当初の学生はわずか96人で、新中国初代総理の周恩来はそのうちの一人だった。大学は「文による治国、理による強国、商による富国」の教学理念に基づき、文、理、商の3学部を設置した。

 24年、南開大学でひと騒動が巻き起こった。

 当時中国にあった多くの大学と同様に、南開大学の教師の多くは留学生だった。教材は国外の物を使い、学術的な討論も常に欧米の歴史と社会を背景としていた。この年、寧恩承という学生が「教育の循環」と題した文章を発表。大学教育が中国社会の実情から遊離しているという深刻な問題を鋭く指摘し、大きな騒ぎとなった。

 学生たちはこの観点に賛同し、教学改革を実行するよう学校に呼び掛けた。一部の教授はこの文章の手厳しい筆致に不満を抱き、学生たちが故意に教師を侮辱していると考え、次々と授業のストライキを決行した。

 これに対し、大学側は改革の歩みを踏み出した。翌年、英語の講義を除き、全てのカリキュラムを中国語で教えるよう改めた。27年には、米国の原書の教材を二度と使わず、中国の実情に合った教材を自ら編集すると決めた。

 南開大学は28年春、張伯苓が中心となって「南開大学発展計画」を制定。中国の歴史と社会を学術的な背景とし、中国の問題を解決することを教育目標として正式に打ち出した。ここに「中国を知り、中国に奉仕する」が、教学の根本理念として確立された。

 南開大学は27年に経済研究所を設立した。初代所長の何廉は、体系的な調査研究を通して「中国を知る」ことを提唱した。当時、天津の商工業は旺盛な発展ぶりを見せていたが、物価指数や生活費指数の統計は何もなかった。そのころの中国では、「指数」は初めて聞く言葉だった。

 何廉は天津の大小の市場を駆け回り、地元の人の助けを借り、さまざまな商品の卸売市場や仕入れでの価格を探ったり、税関での通関手続きや為替などの資料を集め、中心となって「南開指数」を作成した。この指数は中国経済学の実証的研究の先駆けとなり、中国経済学の礎となった。

 さらに、南開大学は東北研究会を設立し、教師と学生を手配して東北3省で実地調査を行い、日本軍の東北侵略の確証を探し求めた。また後に応用化学研究所を設立し、天津永利ソーダ工場や利中酸製造工場と協力して、華北地域における外国企業による酸・アルカリ工業の独占を打破した。これらの研究所は、中国の同規模の大学では、最も早く中国社会の現実的な問題を研究し解決することを理念とした科学研究機関だ。また、現実を重んじる南開大学の厳しく真剣な校風の礎を築いた。

 このほか南開大学は、教学面でも「中国に奉仕する」一連の改革を推し進めた。教育・教学では、基礎理論と実践能力、科学研究の三位一体による体系的な教育を学生に実施することを重んじた。またカリキュラムの編成では、中国の実際的な問題の研究に関する科目を設けた。学科の設置では、電気機械工学や化学工学のような「時勢が必要とする」コースを増設した。

 

南開大学初代学長の張伯苓(写真提供・南開大学)

 

「南開大学建学の父」厳修(写真提供・南開大学)

 

重ねた成果、世界一流大学へ

 南開大学のキャンパスは37年、日本軍の爆撃機により焼き尽くされ、全学の教員と学生は南方への避難を余儀なくされた。長く苦しい道のりを経て、天津から2000㌔以上離れた雲南省昆明で、南開大学と北京大学、清華大学は西南連合大学を組織した。戦後の46年にようやく天津に戻ってキャンパスを再建し、国立大学に改められた。南開大学は戦乱を挟んで浮き沈みしたが、その精神が失われることはなかった。

 4910月1日に新中国が成立し、南開大学はさらなる貢献のための新たな時代を迎えた。5060年代、当時学長だった楊石先は、数十年にわたって心血を注いだ薬物化学の研究を毅然と放棄。中国が喫緊に必要としていた農薬化学などの分野に転じ、その後に多くの貴重な研究成果を上げた。

 また、中国の大学で最初の化学専門研究機関となる南開大学元素有機化学研究所を設立した。当時、楊石先の研究助手だった李正名・南開大学教授は、恩師からの助言を胸に刻み、独自の知的財産権を持ったエコ農薬を作り出し、中国の伝統的な作物のアワに合う除草剤が長い間なかったという技術的な空白を埋めた。

 このほか、国際的な数学者の陳省身や「中国物理学の父」と呼ばれる呉大猷、著名な経済学者で翻訳家の楊敬年など南開大学の研究者は、真理を追究して研究に励み、学んだことを実際に役立てる――という態度で綿々と学生に影響を与え続けてきた。

 17年には、国内42校がリストアップされた「世界一流を目指す大学づくり」プランにも選ばれた。

 開学当初はわずか3学部だった同大学だが、今ではすでに86の専攻を擁し、博士号と修士号を授与する1級学科は計42を備え、全日制の学生数は2万7000人余りに上る。学術分野では、歴史学をはじめ経済学、数学、統計学、化学、材料工学などのレベルは全国の大学でも上位にある。

 1月7日、習近平総書記は南開大学を視察し、「一流大学と一流学科の整備を加速すべきだ。基礎研究にさらに力を入れ、オリジナルイノベーションと自主的イノベーションにおいてより多くの成果を出し、世界の科学技術発展のトップレベルを目指す」と述べ、同大学の教師と学生に期待を寄せた。現在、2030年に世界の一流大学となることを目指し、さらなる努力を続けている。近年では、文科系学科の振興・理科系学科の向上・工科系学科の躍進・生物医学の発展という「4大計画」に力を入れて進めている。そして、次世代人工知能(AI)の研究やエコ文明の研究、現代的な工学体系の構築、スマート医学プロジェクトの人材育成、大気汚染防止などの分野で新たな飛躍的な成果を上げている。

 さらに、京津冀(北京・天津・河北)の共同発展や自由貿易試験区の建設など重要な国家戦略に関連する報告を提出し、シンクタンクの役割を果たした。また同大学の現代光学研究所が研究開発した「全光ファイバー近赤外分光器」は、宇宙実験施設「天宮1号」「天宮2号」による有害気体検査測定に解決策を打ち出し、有人宇宙飛行事業の発展をサポートした。

 このほかにも、陳悦教授のチームが独自に開発した悪性腫瘍の神経膠腫に対する新薬は、十数カ国で特許を取得した。徐文涛教授のチームは、米国スタンフォード大学と韓国ソウル大学の研究者と共に、世界初のフレキシブル触覚センサーを研究開発した。このように南開大学は科学研究と技術革新において注目すべき成果を上げている。

 南開大学では、03年から学部学生による革新的科学研究プロジェクトを立ち上げ、学生の革新精神をかき立てている。これまでに6000件近くが取り入れられ、資金援助額は3600万元以上、関わった学生数は2万3000人余りになる。

 キャンパスライフに目を転じると、ドラゴンボートレースや各種のスポーツ活動、演劇、ボランティアの教育支援活動、文化など、学術面と同様に豊富で多彩だ。

 「教育は社会のために奉仕する」という教学方針に従い、南開大学では1999年からこれまで、計200人余りの大学院生ボランティアが甘粛省や新疆ウイグル自治区、チベット自治区などに赴いて教育を支援。西部地域の教育事業発展に貢献してきた。

 また毎年夏休みには、連続講座「第一人者のサマークラス」を無料で開催。中国科学アカデミーや中国技術アカデミーの専門家や大学教授らが、授業形式で一般市民に奥深い知識を分かりやすくユーモラスに伝えている。顧沛・数学科学学院教授の授業は多くのファンを集めており、参加者は数学の美しさに深く引き寄せられている。

 

大学内の元素有機化学研究所で実験する学生(写真・万全/人民画報)

 

南開大学コンピューター・コントロールエンジニアリング学院の学部生5人が共同開発した「脳波制御ロボット」(新華社)

 

広がる国際教学ネットワーク

 南開大学は創立当初、日本と深い縁があった。

 「建学の父」厳修の教学理念は日本の影響を強く受けている。彼は日本を2度訪問、早稲田大学を視察し日本の教育に対するその重視ぶりに衝撃を受けた。帰国後、自らが創設した女子学校に数人の日本人教師を招き授業を任せた。その後、また日本からヒントを得て天津初の私立中学校を創設した。

 南開大学のキャンパスを散策すれば、両国の少なからぬ交流の足跡を見つけられる。

 周恩来は南開中学を卒業して日本に留学、その後帰国して南開大学で学んだ。大学本館前に堂々とそびえる周総理の立像の背後には、中日友好人士として著名な岡崎嘉平太、松田基、服部美津子の3氏の名前が刻まれている。3氏と大学の一部の校友会は共同でこの像の建設に寄付をした。昨年、公明党の山口那津男代表が南開大学を訪れ、この周恩来像に献花した。

 キャンパス南門近くの友誼桜花園は、山梨学院大学が寄贈したものだ。毎年春になると園内の桜が咲き誇り風に揺られ、中日間に代々伝わる友情を象徴している。

 キャンパス東南にあり、緑樹と引き立て合う白い建物は、大阪万博記念協会と日本の友人の元国語作文教育研究所の故宮川俊彦氏らの寄付により建設された日本研究院だ。劉岳兵院長は「100年来、南開大学の日本研究は常に中国国内トップで、日本の歴史や文化、社会、経済などの各分野について大きな成果を収めています」と話す。

 日本研究院には現在14人の専任研究員がいるほか、東京大学や京都大学、慶応大学などから11人の日本人研究者が客員教授として招かれている。また2005年~17年に計300人余りの修士と博士を育てた。

 南開大学は1980年、中日で初めての大学間協力協定を愛知大学と結んだ。両校は2006年には共同で愛知大学に孔子学院を設立。これまでに受講生は1万8000人を超え、日本の中部地方に多くの中国語の人材を送り出し、中日文化交流の重要なプラットフォームになっている。

 そのほか南開大学では、カナダのヨーク大学など3大学と共同で中国国内で経営学修士(MBA)を養成する「南開―ヨークモデル」を生み出した。また英グラスゴー大学と協定を結び、博士課程の大学院生を指導。米イリノイ大学地域経済応用実験室と協力し、中国地域経済応用実験室を設けた。さらに南開―オックスフォード医学博士共同養成プロジェクトの推進を加速している。このように南開大学は、すでに47カ国320の大学・国際学術研究機関と交流・協力関係を確立し、国際的な教学レベルを高めている。

 「允公允能、日進月異(公のために奉仕し能力を高め、日に日に進歩する)」――これは、キャンパス内にある灰色の石板に刻まれた古い校訓だ。100年来、南開大学は姿を大きく変え、学科は絶えず拡充・創設され、学生たちはこの学び舎から次々と巣立っていった。同時にこの100年、創立者の初志は終始一貫変わることなく実践され、学問研究の精神もゆるがせにすることなく伝承されている。

 

南開大学本館前の周恩来総理像(写真・万全/人民画報)

 

キャンパス内の中日友誼桜花園(写真提供・南開大学)

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