胡同の顔料会館にメロディーがよみがえる 今こそ語りたい北京の会館の物語

2022-03-14 11:13:52

顧思騏=文

 

会館は古都・北京ならではの文化遺産であり、明・清代に栄え、数百年の歴史を持つ。現在でも北京の胡同には400以上の会館が点在している。

 

先日、北京市東城区にある顔料会館を訪れた。この機会に、北京の会館にまつわる物話を皆さんにご紹介しよう。

 

北京市の前門にある青雲胡同と北蘆草園胡同が交わるエリアに今も残る顔料会館は、400年以上の歴史を持つ。修復を経て、昨年10月に一般公開された。

 

先日、2022年北京メディアセンターが主催するイベントに参加し、顔料会館で「顔料との出会い」と題する公演を見る機会があった。これは北京演芸集団が企画・制作し、北京民族楽団、北京歌劇舞劇院、中国雑技団が共同出演したものだ。

 

 

大通りを離れて胡同に入り、少し歩けば、賑やかな街の雰囲気は古風で静かなものへと変わる。さらに徒歩で数百メートル行くと、目に入ってくるのは顔料会館の灰色の壁と朱色に塗られた木造建築であり、それはあたかも何世紀もの歴史を物語るかのようだ。筆者はこの光景を見ているうちに、「どうして会館が北京にあるのだろう」という好奇心が湧いてきた。

 

明代の永楽年間から、科挙試験の郷試(第一段階の試験)に合格した挙人たちが会試(第二段階の試験)を受験するために続々と上京するようになった。各地方政府や北京で役人になった人々は、同郷の挙人に経済的支援をする資金を集めるために、さまざまな「会」を立ち上げ、会館を建てて、挙人たちが北京にいる間に住む場所を提供した。そのため、会館は「試館」とも呼ばれていた。

 

会試は3年に1度しか行われないため、挙人たちが会館に宿泊する期間は限られていた。やがて、会館は科挙を受ける人々を支えるだけでなく、新年や祝日のお祝い、祭祀、結婚、老人の誕生日のお祝い、宴会など、地元を同じくする人々が集い、親交を深める場として利用されるようになった。

 

明代中期以降、商業の発展に伴い、商人や職人を中心とした「工商会館」や「業界会館」が現れ、商人たちが商売や会合を行う場となり、同業者が自分たちの業界の声望を保ち、悪質な競争を避けるためのルールを設ける場となった。

 

顔料会館は今日の山西省に当たる地域の顔料や桐油の商人たちによって明代に設立され、当初は祭祀を行う場だった。最も古い主要な建物は仙翁廟で、染色業の開祖とされる梅福と葛洪という二人の仙人を祭っていた。

 

民間伝承によると、この二人の仙人はかつて物乞いに化けた際、施しを与えてくれた夫婦に藍染めの方法を伝えたことから、この世に染色業が興ったと言われている。

 

その後、山西商人の影響力が強まるにつれ、顔料会館は舞台などの建物を増築し、ますます栄えていった。

 

昔、会館で客をもてなす際には、芝居の一座を招いて舞台で演じてもらうのが最もふさわしいとされていた。会場に入ると、素朴な木造建築が明かりに照らされ、長い歴史を持つ舞台がよみがえったことを実感した。

 

 

山西商人が建てた会館であるため、当然ながら演出にも山西省の要素が取り入れられている。演出は山西省の絳州太鼓から始まり、その演奏は観客を何千キロも離れた太行山脈にいざなうかのようだった。

 

会場では舞台だけでなく、通路も公演を行う場となっていた。アーティストたちが演じる様子を間近に感じることができ、観客は大いに喜んだ。

 

観客一人一人のそばには小さな太鼓が置かれており、絳州太鼓の演目である『牛闘虎(牛と虎の闘い)』では、役者と観客がともに演奏し、会場は一体感に包まれた。

 

 

若手の京劇演出家で、梅蘭芳氏の継承者でもある鄭瀟さんが民間音楽の伴奏に合わせて京劇『貴妃酔酒』を歌い、観客たちを特色に満ちた北京文化の中にいざない、古都・北京の歴史的魅力を京劇の韻律に乗せて伝えた。

 

実は、会館と京劇は切っても切れない関係にある。会館が建てられた時期と京劇が形作られた時期は重なっており、場所の面でも京劇発祥の地である北京の南城地域には多くの会館が建築された。会館内の舞台は、京劇の芸術性の発展において重要な役割を果たし、北京の文化特性を形成する上で大きな影響を与えた。

 

 

民俗音楽をメインテーマに、京劇、嗩吶、ダンス、アクロバットなどさまざまな芸術を取り入れ、観客に異なる視聴覚体験をもたらす。さらに、アクロバット、古代のカラフルな曲芸、三線、サックスなどの要素が加わり、芸術の融合と発展という革新的な生命力を見せつけました。

 

公演の終わりには、任天堂の家庭用ゲーム機・ファミコンの名作ゲーム「スーパーマリオブラザーズ」のテーマ曲を、アーティストたちが民間音楽の楽器で披露した。ゲームという現代文化と伝統芸術の融合に、筆者は驚きとともに大いなる喜びを感じ、多くの観客も笑顔を浮かべていた。そうして舞台は大盛況のうちに幕を閉じた。

 

公演に加え、現場には楽器製作の実演コーナーも設けられていた。李楽平氏などベテランの楽器職人がその場で二胡や琵琶、中阮などを作り、観客は足を止めて見入っていた。

 

顔料会館だけでなく、近年、北京では会館の保護と修復が行われ、会館の舞台が再び活気を取り戻している。北京市の東城区と西城区では、文化芸術団体が旧会館での公演を積極的に推し進め、伝統演劇や演芸などの文化芸術コンテンツを上演する場を広げるとともに、旧会館の新たな活用法も見いだした。

 

後で調べてみると、20世紀初頭の清朝末期に科挙制度が廃止され、会館はその機能を転換させて新式学堂や同郷会となり、革命志士や作家、学者の避難所となった所も多かった。

 

例えば、康有為と梁啓超が維新運動を起こした場所の一つが安徽会館であり、孫文の北京での主な活動は湖広会館で行われ、魯迅は紹興会館で『狂人日記』や『孔乙己』などの名作を書き、封建社会を批判し、光明を謳歌した。

 

会館は文化遺産でありながら、時代とともに進化を遂げ、強い生命力を持っている。会館という遺産がこれからも輝き続け、人々と時代に貢献することに期待したい。

 

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