マイケル・リンゼイ氏生誕105周年
文・写真=陳蘊青
今年でマイケル・リンゼイ氏の生誕105周年を迎える。中国のために顕著な貢献を果たしたこの海外の友人を記念して、8月20日に中国国際友人研究会、北京市対外友好協会、中国国際放送局(CRI)、北京大学元培学院そして新華社新聞研究所の共催による「傑出した海外の友人・マイケル・リンゼイ氏を記念する会」が北京で開催され、国内外から関係者約100人が出席した。会上ではマイケル・リンゼイ氏の親友や関係機関の代表者らが彼の業績を懐古し、高く評価した。
ノーマン・ベチューン氏と同じ船で訪中
1909年、マイケル・リンゼイ氏は英国の教育者の家柄に生まれ、祖父と父親は英国の高等教育機関で勤務していた。彼はオックスフォード大学出身であり、まず自然科学を学び、後に経済学や哲学なども学んだ。また彼は物理学を好み、特に無線技術にのめりこんだ。
1937年にマイケル・リンゼイ氏は燕京大学からの招聘を受け入れて、カナダのバンクーバーから船で中国にやって来た。同じ船にノーマン・ベチューン氏(抗日戦争時期に海外から医療援助に駆けつけた医師であり、中国で逝去した後に毛沢東が発表した「ノーマン・ベチューン氏を記念する」という声明によって、中国全体で広く知られるようになった)も乗船していた。船上で彼らは中国で再会する約束を交わした。
マイケル・リンゼイ氏は、人民による抗日戦争を全面的に支持した。1938年に彼と都市若い教師らは、聂栄臻が率いる晋察冀辺区を視察した。現地の政府や村落の小学校の見学や民衆の集いや文化活動の観察を行い、そしてノーマン・ベチューン氏との再会の約束を果たすことができた。彼は同辺区における物資の不足を痛感して北京に戻り、彼は危険を冒して大量の医薬品や無線装置の部品などを購入して現地に届けた。燕京大学の女子学生である李效黎氏の助けを借りて、医薬品や無線通信装置の部品の説明書を翻訳した。彼女は後にマイケル・リンゼイ氏の妻となった。
晋察冀辺区で無線装置の指導
1941年12月7日に真珠湾攻撃が行われ、マイケル・リンゼイ夫妻は日本軍に捕らえられる前に北京を脱出し、1942年の春に晋察冀辺区にやって来た。
当時、現地では無線通信装置が緊急に必要とされていた。そこで、無線技術に精通しているマイケル・リンゼイ氏は通信部に技術顧問として招聘され、無線技術を伝授し、また入手した無線装置の部品を使って、無線通信装置の設計と製造を行った。彼の妻は通信部で英語を教え、夫婦で共に部隊内での英語による情報伝達を助けた。後に、マイケル・リンゼイ氏から教えを受けた多くの生徒たちが新中国成立後に、電気通信業界の高級幹部や技術専門家となった。
新華社の国際的発展に貢献
1944年5月、マイケル・リンゼイ夫妻は延安に来て、毛沢東などの指導者らから熱烈な歓迎を受けた。彼は効率の高い送信所を設けて、中国共産党の声明を全世界に届けるように提案した。彼の努力と指導の下、延安に中国初の国際送信所が建設され、発信された電波は米国のサンフランシスコまで届いた。この事業は新華社が世界の舞台に立つきっかけとなった。彼はさらに英文新聞の編集と執筆を行い、時には放送の仕事にも携わり、世界に中国を発信する上で顕著な貢献を果たした。
無線技術の指導をしているマイケル・リンゼイ氏(写真提供・中国国際友人研究会)
人民中国インターネット版 2014年8月
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