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駐日外交官が経験した対外開放30年(1)

 

「中国製品イコール低級品」

王泰平氏、1941年生まれ、元駐日本大阪中国総領事(大使級)。日本への赴任歴は6回、合わせて22年に及ぶ。中日間を数十年にわたって往復した自らの体験を振り返ると、青海原が桑畑になってしまうほどの世の移り変わりの激しさについて、ただただ感嘆の念に堪えないという。新華社のウェブサイト「新華網」が伝えた。

年若き王氏が記者として日本に初めて赴任したのは1969年、中日間の国交はまだ無かった頃だ。当時の中国は「文革」の最中にあり、物資が欠乏し、深刻な衣食問題を抱えていた。一方、日本は経済急成長時代にあった。王氏は日本で、商品の充足と市場の活況を見た。電気冷蔵庫、洗濯機、カラーテレビ、音響製品、テープ・レコーダーなどは全て、一般庶民の家庭に普及していた。自家用車は全国的に良く売れ、東京や大阪などの大都市では交通渋滞が発生、通勤ピーク時には車より歩く方が速い場合さえあった。1970年に大阪で開催された万博は、日本が世界の経済大国の仲間入りを果たした象徴となった。

中日の経済社会発展における極めて大きな格差を目の当たりにして、深刻なショックを受けた王氏は、「社会主義社会では経済制度が機能不全に陥るのではないか?中国はいつになったら日本に追いつけるのだろうか?」と考えた。

1980年代後半、国内の経済発展に伴い、中国製軽工業製品が日本市場にますます多く見られるようになる。それまで日本に輸出されていた中国製品といえば農・畜産・漁業製品だけという状況に変化が生じたのだ。

王氏によると、中国製アパレル製品、靴、帽子は当時、「三越」や「高島屋」など日本の一流大型店には基本的に入ることができず、「馬喰町」のような安い露天が並ぶ場所でのみ、処分品の投げ売りという感じで販売されていたという。日本の中産階級は手を出すことはなく、更にはお金持ちは一瞥すらしなかった。当時の日本人にとって、「中国製品イコール低級品」で、さらに心理的な抵抗も働き、たとえ値段が安くても買わなかった。

日本人ばかりでなく、日本に住む中国人も同様だった。彼らは「日本製」スーツを工面して購入し、中国からの輸入品を買おうとはしなかった。当時の中国製品の品質は、確かに日本製にはるか及ばないことから、これも仕方のないことだった。

低級品から「良質廉価」品へ

1990年代に入ると、中国製品は日本市場に湯水のごとく押し寄せた。しかも、「三越」や「高島屋」など大型百貨店にも顔を現すようになった。アパレル製品、寝具、食器、玩具などの生活用品だけではなく、カラーテレビ、音響製品、電気冷蔵庫、自転車、工具などの機械・電気製品にも中国製が登場した。これは10年前には全く想像できないことだった。日本自身が生産大国であり、上述の自国製品は国民に絶対的人気があり、自国製品に慣れ親しんでいた日本人は、外国製品に何かと文句をつけていた状況のもとで、相当な競争力と吸引力を持たない限り、「メイドインチャイナ」製品の日本市場への参入は難しかった。

中国製品の日本市場参入を実現させた「決め手」は何か?王氏は、それを「良品廉価」の4文字にあると指摘する。日本向け中国製品は全て、日本の輸入業者が厳しく要求する品質、種類、規格に基づいて製造されており、外観・品質ともに優れている。当時の中国の労働力価格は日本の25分の1であったため、同じような製品を中国で製造した場合、日本での製造に比べ、コストがはるかに低く抑えられた。

対日輸出の急増に伴い、「メイドインチャイナ」の日用雑貨品が日本の「百円ショップ」に溢れ出るようになった。当時のレートは100円=7元あまり。中国で数角(人民元補助単位:1元=10角)や1~2元で売られている商品が日本の「百円ショップ」に入ると、価格は数倍、十数倍に跳ね上がる。また、これらの商品を日本で作るとすると、製造コストは100円ではおさまらない。これこそが、中国の日用雑貨品が輸入業者や消費者にもてはやされる「決め手」となった。

 

駐日外交官が経験した対外開放30年(2) 

 

「人民網日本語版」 2008年11月10日

 

 

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