チベットの歴史、政治、文化の中心地だった薩迦(サキャ)寺が7年にわたる修復作業を経て、今年9月に新たな姿で人々を迎えることになる。
サキャ寺修復プロジェクトはチベットの「三大重点文化財保護修復プロジェクト」の1つ(その他の二つはポタラ宮修復工事とノブリンカ修復工事)で、投資総額は3億8000万元になる見込み。
「サキャ」はチベット語で「青白い土」という意味で、同寺が青白い土地に建てられたことから、サキャ寺と呼ばれるようになった。サキャ寺は総面積1万4760平方メートル、平面が方形を呈し、高い壁に囲まれている。壁は赤、白、灰色の帯模様に飾られ、それぞれが文殊菩薩、観音菩薩、金剛手菩薩を表わしている。
サキャ寺はチベット第2の大都市日喀則(シガツェ)から南に180キロ離れた薩迦(サキャ)県に位置している。同寺は所蔵されるチベット仏教の経典・書籍が最も多い寺院というだけでなく、13世紀にチベットを統治した地方政権の薩迦(サキャ)王朝の中心地でもあった。
13世紀、元朝政府はサキャ寺を修復するため、内陸から多くの職人を派遣した。現在のサキャ寺はチベット族、モンゴル族、漢族の風格が含まれた建築で、それぞれの民族が協力した結晶である。
生き残った南寺
サキャ寺はもともとサキャ北寺とサキャ南寺に分けられた。1073年に建てられた北寺は南寺の8倍に相当する。現在のサキャ寺は13世紀に建てられたサキャ南寺を指している。
南寺がこれほど完璧に保存されてきたのは奇跡だと言わざるを得ない。「三大重点文化財保護修復プロジェクト」弁公室総合組の尼瑪次仁(ニマツェレン)組長は、「北寺は『文化大革命』期間中に壊された。地元の幹部は昔の寺がどんなに贅沢なものなのか、農奴主が農奴をいかに搾取したのかを後世の人々に見せるため、南寺を反面教材として残してきた」と説明。
改革開放後の1979年、サキャ寺は改めてオープンし、観光客や参拝者を迎えている。それ以降、中央政府はチベットの文物や古跡の復旧に大量の資金や人力を投じてきた。
「現地の民衆、僧尼、信者たちがサキャ寺の修復保護に大きな貢献をした」と同組長はいう。サキャ寺には大量のチベット仏教の経典が所蔵されていることから、「第二の敦煌」と褒め称えられている。
サキャ寺は建立以来、数回にわたって修復されてきたが、2002年に着工した同作業はこれまでに投入の最も大きいものだ。サキャ寺は海抜4300メートルのところにあるため、酸素不足や乾燥した気候が修復作業に大きな困難をもたらしている。
サキャ寺の施工期間はとても短い。毎年の5月から9月にかけてが施工期間で、それ以外の時間には材料の準備や補強工事などが行われている。
サキャ寺の壁画修復は「三大重点文化財保護修復プロジェクト」の中で、修復面積が最も大きく、投資が最も多く、難度が最も高い部分だ。壁画の総面積は2000平方メートル余りで、800年以上の歴史がある。歳月の移り変わりを経て、はっきりとは見分けられなくなった壁画もある。
壁画の修復は温度や湿度への要求が高いため、施工期間もそれに従って短くなる。昔の様子を再現させるため、修復作業グループは地元出身の職人を多く雇っている。彼らは壁画に体現される宗教的意義をよく理解しているからだ。
修復作業が始まった途端に、地元の庶民や僧侶が意見の食い違いを示した。
ニマツェレン組長は、「僧侶の理念と政府の文化財保護の理念に食い違いがある。『こんなにたくさんのお金を使ったからには、寺院を壊して新しいサキャ寺を再建してもいいのではないか』と僧侶は考えているが、われわれの理念は歴史の真実を回復させることだ」と指摘。
修復の重要さと意義をラマたちに繰り返し説明した結果、双方は「原状回復」ということで一致に至った。
政府はサキャ寺の文化財を展示するため、境内に博物館を建てている。
現在までに、寺院の城壁、角楼、敵楼、僧房の修復作業がすでに完工し、通報装置、消火設備、電気・照明設備、排水設備、避雷設備の据付作業もスタートし、今年9月に完成の予定だ。
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