朱実
中米関係の雪解けに一役買ったのは「ピンポン外交」であるが、1972年に中日関係の国交正常化を後押ししたのは「バレエ外交」である。

資料写真(左):松山バレエ団に会見する毛沢東主席
資料写真(右):周恩来総理と3人の「喜児」(王昆氏、松山樹子氏、田華氏)
私が中国人民対外友好協会の国際関係事務所で働いていたときのこと、日本の、特に文化方面の友好団体の訪中を多く接待していた。その関係もあって、1972年、上海芭蕾(バレエ)舞踏団が朝鮮と日本で公演をするとき、私はマネージャーとして参加した。主に、スケジュールの調整などの事務的な仕事を担当していた。その年の5月、バレエ団は先に朝鮮で、金日成総書記の60歳の誕生日祝賀会のための公演を行なった。帰国し、北京で1ヶ月休養した後、『白毛女』と『紅色娘子軍』の両演目と他の訪日期間中に上演する演目の練習が始まった。

写真(上):バレエ『白毛女』
写真(下):交流をする中日のバレエ出演者
バレエ団は7月4日に北京を出発し、香港経由(当時、北京-東京間の直行便はなかった)で5日に東京に着く予定だった。しかし、その時、日本では大きな政局変動が起きていた。中国を一貫して敵視していた佐藤栄作政権が終焉を向かえ、田中角栄首相の時代がやってきた。田中首相は就任後の記者会見で、「自分の就任後の重要な使命は中国との国交正常化である」とはっきり表明し、すぐに準備に取り掛かった。これは正に中日関係を回復する千載一遇のチャンスである。周恩来首相はただちに、日本とより積極的に協議ができるよう、友好協会の副秘書であり、日本通で知られ、日本への留学経験もある孫平化氏をバレエ団の団長として任命し、バレエ団を率いて東京に向かった。
日本の旧友の仲介もあり、孫平化氏は多くの日本の政界や財界の要人と話をすることができた。8月11日、大平外務大臣との会談中に、田中首相が両国の国交正常化のため、訪中する旨が伝えられた。翌日、中国の姫鵬飛外交部部長は即座に、中国を代表し、「周恩来首相は田中首相の訪中を歓迎する」と答えた。このようにして、田中首相の訪中は条件も整い実現間近の段階にきた。日本国内の右翼勢力の反対を抑え、8月15日、田中首相は孫平化氏および肖向前氏と会談し、周恩来首相との会談が実りの多いものとなることを願っていると述べた。

松山バレエ団による『白毛女』

バレエ『白毛女』
8月16日、上海芭蕾(バレエ)舞踏団は、JALとANAの便を貸切り、田中首相が訪中する際の試行運行として、東京-上海間を直行便で帰国した。関係者たちは周恩来首相の指示で、2000人あまりが出席する盛大な歓迎式を上海で行い、「バレエ外交」の成功を祝した。長年、対日関係の仕事に従事していた私にとって、このような歴史的価値が高い活動に参加する事ができたことはたいへん貴重な体験であった。この歴史の証人としてだけでなく、わずかながらでも力添えできたことは、何よりの幸せである。
その年の9月、田中首相は訪中を果たし、国交を回復するための共同声明に調印した。中日両国の外交関係はこれを機に新たなスタートを切ることとなった。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2010年9月8日
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