中国成都市内の東北部に位置する胡同(フートン)の一角に、「赤十字社」の文字が表示された一台の自転車が停めてある。この自転車の持ち主は、2008年に起こった中国四川大地震の復興支援をしている日本人、位坂和隆氏である。中国通の彼によれば、この「公用車」は「何でも一手に引き受ける個人経営モデル」を体現しているのだという。
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資料写真:四川省で支援活動を行う位坂和隆氏(右) |
日本赤十字会四川大地震復興支援事業における唯一の現地代表である位坂氏は、51億7000万円の管理を任されており、中国での活動のための運転手や通訳をつけるよう言われていた。しかし、彼は「一匹狼」の道を選び、自身で三役をこなした。いつも自転車で移動し、普通のマンションに住み、小さな店でラーメンを食べる。「単騎で千里を走り、中国の庶民生活に溶け込むことで中国への理解を深めることができる」と、彼はこの生活を気に入っている。
彼のオフィスでは、復興支援生活の記録となる写真や地図、日程表等が壁一面に貼られている。彼は、その中で教室の様子を撮影した写真を指差し、記者に教えてくれた。日本赤十字会の四川大地震復興支援プロジェクトは2008年の年末から始まったのだが、その当時彼が、見渡す限り廃墟と化した被災地に現地入りすると、中国の子どもたちが黒板も、椅子と机も、窓もない「教室」の中で無邪気に授業を受けている光景を目にし、とても感慨深かったという。
そのため、日本赤十字会は、学校や診療所に重点を置いて、復興支援を行ってきた。これまでの3年間で、現在建設中のものも合わせると、彼は学校30校、郷鎮レベルの診療所39箇所、村の診療所54箇所、民家1.9万軒以上の再建に携わっている。更に、彼は清華大学で教鞭をとった経験を持ち、現地の「農村教師」に姿を変えて登場することもしばしばだ。
「子どもたちが全てに対し勇敢に立ち向かえるよう、諸葛亮の思想を教えてやります。」彼は言う。「草船借箭(草船で矢を借りる)」のように、苦境に陥ったときには自らの創意と思考をめぐらせ、それを受け入れることだ。彼また、子どもたちに「大きくなったら国際社会に大きく貢献する」という「宿題」を課した。
しばらくして、彼は子どもたちの「答案」を受け取ることになる。3・11地震と津波が日本を襲い、ちょうど公務で日本に帰国していた彼は、そのまま救助活動に参加し、中国に戻る日程を先延ばしにした。彼が日程を変更したことで、中国の被災地の復興プロジェクトの進展に影響が出るのではと心配していたちょうどその時、ニュースで中国の仲間たちの姿を目にした。農村教師と学生たちが日本に寄付をしてくれたのだ。
「日本は過去数十年間、ずっと先進国として寄付や援助を行う側にいました。今回、自分たちが重大な被害に遭い、ほんの少しの救援資金でも、それがどれだけ大切なものかということを痛感しました。…中国の子どもたちの行動は、多くの人々にその温かさを実感させることになりました。」
中国人の「感謝の気持ち」の表し方も様々ある。位坂氏はオフィスの下の胡同にある小さなラーメン屋の常連客なのだが、彼によると、「2両(1両=50g、中国ではこのように重さで麺類を注文することがある)を注文すると、お店の女将さんはいつも3両分入れてくれる」のだという。
自らを「40代の成熟度に30代の顔、20代の体に10代の元気、そして子どものような好奇心と一生健康で良好な気持ちを持っている。」と称す彼は、今後は「単騎で」千里を走ることはできなくなってしまいそうだ。「精神的援助」、つまり心理カウンセラーの中国人女性が、彼に「人々の心のケアに従事してきたけど、私自身もとても寂しいから、心の支えが必要です。」と「中国式」の告白をしたからだ。
こうして、彼らは良縁を結び、「赤十字社」の自転車の後ろには、もう一つの人影が増えた。
愛を手に入れた彼には、更なる大きな理想がある。「政治嫌い」の彼は言う。中日両国の近隣関係は変わることはない。両国の間には、時に摩擦が生じることもあるが、赤十字の活動は永遠に中断されることはない。
彼によれば、中日間の摩擦は「夫婦喧嘩のようなもの、喧嘩と仲直りの繰り返しに過ぎない。」
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月11日
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