放射能の危険を顧みず、日本で救援活動を展開し、数々の困難を克服した技術者3人が10日午後3時25分、長沙に凱旋、花束を抱えた同僚たちや長沙市民から熱く歓迎された。
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5月10日、長沙の空港で日本から戻ってきた3人を迎える様子 |
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福島原発の救援に参加した三一重工の社員。右から周新安さん、戴達安さん、彭延寿さん。(5月10日撮影) |
3月11日、日本でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、それに伴って起きた原発事故が世界の注目を集めている。3月19日、東京電力から発注を受けた三一重工は、62メートルのアームを持つ、100万ドル相当のポンプ車を日本に無償で提供する意向を伝えた。ポンプ車の調整経験が豊富な同社の戴達安さん、周新安さん、彭延寿さんの3人が選ばれて日本に赴き、日本側の操縦士に操縦の仕方を指導するなどした。
「日本派遣の知らせを受けた際、会社は身の安全を考え、私に意見を求めてきましたが、すぐに同意しました。ただ被災地の役に立ちたかった」という彭延寿さん。その後、技術者3人はそれぞれ上海、長沙、ベトナムの三カ所から直ちに出発し、3月21日、22日には東京に到着した。
「当時、東京では余震が続き、まだ放射能に汚染される危険性があったため、外国人のほとんどは退避していた」振り返る周新安さん。しかし3人は千葉県で日本側の作業員への研修を続けた。
「研修時間が短かったため、ホテルに戻って休むのは夜中の12時過ぎでしたが、翌朝5時には起床して仕事を続けました」と話す戴達安さん。密な研修と操作とチェックを繰り返し、2日後、日本側の操縦士3人はポンプ車を基本的に運転できるようになった。
3月27日12時45分、設備調整、陸・海上輸送、操縦士の研修、注水テストなど8日間に及ぶ作業を終え、62メートルのアームを持つポンプ車がようやく福島原発に到着した。3月31日12時、62メートルのアームを使ってポンプ車で福島原発1号機への注水が開始された。1回目の注水で原子炉の温度は下がった。
三一重工からの支援と技術者3人の懸命な姿に日本側は感激でいっぱいだったという。4月1日、丹羽宇一郎・在中国日本大使は三一重工の梁穏根董事長にお礼の手紙を出し、日本政府を代表して感謝の意を伝えた。
三一重工の国際支援は日本が初めてではない。2010年10月、「神州第一吊」と呼ばれる三一重工のキャタピラ・クレーンがチリの鉱山事故での救援活動で活躍した。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年5月11日
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