大会を終えて二ヶ月になるが、大会準備中のあれこれには、今でも私の心を動かしてやまない感動的なものがある。
忘れられない教師の日……
2010年9月10日、その年の教師の日は私が大学の教壇に立って2度目だった。学院から通知を受け、経験もない若輩者の私が、金奉源、朴光、安太紅の学生3人と2010年「笹川杯日本知識クイズ大会」の東北地域大会の準備をすることになったのだ。2010年の教師の日は長い道のりの始まった日でもあるのだ。
若きチーム
「笹川杯日本知識クイズ大会」は、日本語専攻の学生には馴染み深い大会である。今のところ中国国内で最も大規模かつ権威ある日本知識クイズ大会なのだ。「笹川杯日本知識クイズ大会」は東北地域でも何度か開催されているが、本学が参加するのはまだ今回で2度目。今回大会の相手は吉林大学、黒龍江大学、大連外国語学院などの東北名門校チームだった。これら名門校は日本語専攻の実力も優れ、また「笹川杯」の常連でもある。数々の参加経験やデータも持っている彼らには、大会の準備も経験済みなのだ。しかし、我々は違う。本学は財政経済大学であるため、日本語が専門の学生たちもビジネス日本語重視のカリキュラムであり、大学四年間で必修科目となっているのは文学のみで、しかも週に1コマだけである。文化は選択科目で、日本史に至っては課程の開設すらされていない。ゆえに若き我がチームにとっては大会のルールから内容まで何もかもが新しく、すべての準備が初めから少しずつ進めねばならないものだった。
ある冬の約束
私がまだ若く経験も足りないため、作戦段階では丁寧にまじめに取り組むのが精一杯だった。大会準備中、資料の正確性を保証するためには「百度」や「ヤフー」で検索するだけではまったく間に合わなかった。我々は「最も信頼できて正確なのは、やはり書籍の情報」を原則とした。チームメート3人はそれぞれ何冊か本を持っていたが、ほとんど日本語版だった。各書の内容は各メンバーが暗唱できるほど読み込んだ。よく冗談で、情報収集「ローラー作戦」だなどと言い合っていた。目を通したらメンバーが要点をまとめてパソコンに打ち込み、プリントアウトしてファイリングし、全員で繰り返し読んで難点や重点をみんなで分析した。そうした努力を経て、空っぽだったフォルダが資料でぱんぱんになった時には、感慨に近いものを覚えた。中身はどのページもびっしり文字で埋まり、色々な色や書体で注釈がつけられていった。日本各地の手描き地図もたくさん盛り込まれた。文化面をすべて担当した安太紅君の力作で、1枚1枚に心がこもっており、不眠の努力がうかがわれるものだった。
全員が新人ではあるが、我がチームの目標は敢えて「できれば1位獲得、少なくとも2位は確保」に設定した。自身にプレッシャーをかけ、活を入れるためである。大会準備中、メンバー3人とも4年生になった。みんなが準備をしつつ就職活動もしており、苦労のほどは言うまでもない。インターンの研修中も、日中は勤務し、夜に帰宅するとすぐ復習や暗記を始めた。時間を作っては勤務先でも学んだ物事を復習した。その間、資料を「かじりながら」眠りに落ちた夜が幾晩あったことか。朴光君のひと言がみんなの気持ちを表している。「一番いやだったのは、勤務先の研修資料と僕たちの復習で進ちょくに衝突が出た時です。でも幸いなんとかなりました。あの日々が大学4年間で最も充実した時間だったと感じています。生涯の思い出になるでしょう。苦痛も楽しみもありました。まだ今は楽な生活に備えて苦労をしつくす段階でしょう」。
去年9月に大会の通知を受けてから、毎朝6時40分から7時30分までは勧学楼の前で読み合わせをするのが4人の固い約束となった。約束はやや涼しい初秋から寒い冬にかけて続いた。朝の読み合わせは確かに疲れたが、国際商務外語学院の学友が得るところは多かった。特にメンバーの3人は4年生であり、1年生や2年生の後輩達と一緒に読み合わせをするのは当初ばつが悪かったようだ。しっかりと継続することはさらに大変なことである。毎朝の読み合わせ以外にも、毎週木曜の夜には決まってみんなが集まった。場所は私の研究室である。机を囲んで座ると、一週間の資料整理の成果をまとめた。メモを回覧して、難点、重点を共有し、時には互いに試問して、記憶を深めあった。本学には日本語図書資料が少ないため、「日本の一番」を確認しに大連外大図書館、大連市図書館、大連領事館の図書センターなどに何度か足を運んだ。正しい答えを確認するために真っ赤になりながら言い争ったことも、要点を探ろうとしてどうにもならないほど議論したり、大会準備のため徹夜して風邪を引いたことも何度もあった。あの忙しくて暖かい夜の数々は、今でもありありと目に浮かぶ。
好事魔多しということなのか、一同はあまりに長い試練を経験することになった。当初の予定では11月に開催されるはずだった大会が、当該期間中の日中関係緊張によって12月に延期され、後日また無期限延長となってしまったのだ。当時は一同、期待し、やきもきして、思い悩んだが、放棄するつもりはなかった。私は特に責任を感じていた。3人はみんな分かってくれていて、文句を言ってきたりしなかったのだが。大会がキャンセルになったり、実際の開催時にみんなが卒業間近となってしまっていたら、3人に申し訳が立たない。あれだけ多くの犠牲を払い、長く努力してきたのに。
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