林国本
このところ、日本からいろいろな代表団が中国を訪問し、中国側となごやかな雰囲気の中で、この40周年という節目の年をどのように祝い、また、どのように次の段階へと進むかということなどを話し合っているようだが、私自身はなが年日本と関係のあるジャーナリズムの分野で仕事をしてきたので、やはり感慨無量の気持ちに浸っている。
この40年を振り返るため、私は書架から孫平化元中日友好協会会長(故人)の著書「日本との30年」――中日友好随想禄――を取り出して読み直してみた。この本そのものが、中日民間交流の一大シンフォニーの楽譜と言えなくもなく、私はおそらくこの一大シンフォニーの中で、楽団の隅っこでピッコロとかシンバルの演奏を担当していたと言えるが、それでも大きな歴史の流れの中で、たとえバイオリンとかチェロとかいった楽器の演奏者でなくても、とにかく私なりに果たすべき役割を果たしたのではないかと思っている。
私は1963年に北京週報という、日本語で出版される週刊誌の創刊に携わり、中日国交回復とそれ以後の動きにかかわってきた。
日本語によって出版される週刊誌は当時中国に1つしかないものであった。スタッフとして集められた人たちも、一人以外メディアの仕事をした経験がなかったので、たいへん苦労した。それでも、その後、日本人スタッフも加わってくれたので、とにかく、たたき上げ式に鍛えられて、なんとか週刊誌らしいものができ上がった。
今でも覚えているが、ある日、会社がとっていた日本の新聞に、アメリカのキッシンジャー補佐官が下痢を患って避暑地で休養している、というニュースが載っていたが、当時まだ未熟な青二才だった私は、このニュースに別に特別のものを感じなかった。ところがその後上司が、午前中のラジオ体操の時間にデスクで待機しているようにというので、待っていると、「キッシンジャー補佐官が北京を訪問」という記事を日本語に訳すように、といわれ、ハイ、OKとそれをこなし、別に特別なことを感じなかった。ところが、その後、届いた日本の新聞に「頭越し外交」とかいう大きな見出しが出て、いろいろな解説記事が掲載され、やっと事の重大さを知った。今なら当時よりはいくらか人間としても円熟しているので、大体のことは自分でも分析できるが、当時の私は記事の翻訳の事しか頭になかったのだから、いかに未熟な人間であったか分かろう。
もちろん、この記事は英語、フランス語などにも翻訳され、それまで民間の交流で下地ができていたこともあって、中日国交回復のそもそものキッカケとなるわけである。孫平化氏のような大きな仕事はできなかったが、とにかくこの大きな歴史の流れの中で、微々たるものであっても自分なりに役割を果たしえたことを光栄に思っている昨今である。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年5月30日
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