文=コラムニスト・陳言
中日国交正常化40周年を迎えた。まだ国交が実現していなかった40年前には、日本の民衆や世論の間で新しい中日関係を確立するという願いや、叫びがあちこちで起きていた。だが今日では、7つの団体や自治体の首長も、ごく普通の日本国民も、中国への期待をすでに失ってしまったようだ。経済面や中国ビジネスを除き、安定かつ互いに理解し合う中日関係を確立するには、新しい言語や概念に欠けている。
今年2月、日本民間の日中友好7団体が北京で「元気な日本」展示会を開催し、国交正常化40周年を祝った。会場は熱気に包まれたが、司会者が活動に参加した日本側のメンバーを紹介すると、日中友好協会会長の加藤紘一氏(元自民党幹事長)や、日本国際貿易促進協会会長の河野洋平氏(元衆議院議長)、日中友好会館会長の江田五月氏(元参議院議長)ら著名な政治家の名が耳に入った。民間の友好団体の会長をこうした著名政治家が務めることは、プラスの影響を与える側面もあるが、これらの民間団体は次第に日本の外交を補う存在になり、政府の外交と完全に一致するものでない民間の声を欠くことになる。
日本は基本的に政治家が民間の対中外交の代わりを務めているため、中日間にいざこざが生じた場合、日本側に出てくる声はそれこそ一つであり、日本外交の包容性や多様性はかなり少なくなってしまった。日本の対中民間外交は官が民の代わりをしており、そのため中日関係を確立するという構想や行動など各方面で全面的に停滞状態にあり、今後も大きく変わる可能性は非常に小さい。
40年前、あるいは第2次大戦が終結して間もないころ、中日の民間はどのように交流したのだろうか。当時、著名な社会活動家やメディア関係者が中国に来ることは決して多くはなく、中国に入って普通の民衆と交流できる数少ない日本の民間人士は常に「日中不再戦」とか、「世々代々の友好」といった理念を至るところで伝えた。戦争が終わってすぐのころ、人びとの戦争への記憶はまだ新しく、そうした心の内なる叫びは深く中日両国民の共鳴を呼んだ。こうした叫びがあったがゆえに、1972年の中日国交回復に向けて良好な民意の礎が築かれたのである。
「民が官を促す、これが中日国交正常化の実現で重要な推進力となった」。中国人民外交学会の黄星原副会長は国交正常化の特徴を説明した際、こう強調した。しかし今日、民が官を促すという様式はそのあるべき作用をすでに失ってしまった。数多くの日本企業が中国でビジネスに従事していても、中日の民間が東アジアの平和体制やエネルギーなどの共同備蓄、産業の分業、新技術の開発といった面で東アジアの新しい関係という概念、スローガンを打ち出したことはない。
民間交流に新しい概念がなければ、それぞれが利益を得ることが唯一の交流の目的となる。両国の一般人の間の理解は少なく、東京などの自治体の首長の声は、日本にもともとある「中国嫌い」という社会背景のもとで伝播の土台を築くようになった。中日関係はますます複雑怪奇と化し、対応する方法も少なくなった。中日国交正常化40周年にあたって、われわれはとくに、こうした民間の交流、民間の叫びが欠けていると感じられる。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年7月20日
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