■伝統を覆すことで得た商業的創造性の寿命は短い
数日前、延安街にある焼肉の露店で、「西遊記」の孫悟空と八戒のキャラクターに扮装した店主が炭を起こし、「新鮮な唐僧の肉」と称して10元6本の肉の串を売っていた。5歳の子供がこの光景を見て、泣き出した。子供は母親に納得いかない様子で聞いた。「どうして忠実なはずの孫悟空は師匠である唐僧を殺したの?もしかして、孫悟空は悪い人なの?」。母親は、やるせない様子で、子供が目にした光景をどのように説明すればいいかわからないようだった。
ネット上では、この件に対する批判の書き込みが相次いだ。この行為は確かに違法ではないが、中国の古典文化が継承する価値観を覆すものであり、ここから生まれるものは単にマイナスのエネルギーでしかない、という主張だ。
確かにそうだ。「創造性に罪はない」と主張する別の人物もいたが、大多数の人々はある共通認識を持つに至った。それは、商業的な創造性は伝統を覆すことを代価にしてはならない、というものだ。「これは、売り手が守るべき原則であり、超えてはならないボーダーラインだ」という考えだ。伝統文化を覆すことで、人々をひきつけるマーケティングは、確かに一時的には注目を集めることに成功するかもしれない。しかし、その効果は長続きするものではない。しかも、一旦こういった商業的ギャグによる亜流文化の現象が氾濫してしまうと、伝統の古典文化は娯楽にのみ込まれて死滅してしまうだろう。
伝統文化を商業的なマーケティングの手段にする、と言えば、かつて大ブームを巻き起こしたテレビによる「国学ブーム」や「学者芸能人」、とくに伝統文化を主な研究内容とする「学者の芸能人化」について触れざるを得ない。
「歴史ブーム」や「国学ブーム」によって、数多くの視聴者がブームに乗らされただけでなく、これによってテレビ局や出版社も莫大な利益を得た。しかし、伝統文化フォーラムなどの番組が高視聴率を記録すると同時に、数多くの論争も巻き起こった。その論点は、テレビによる「国学ブーム」や「学者の芸能人化」の背景にあるのは、「伝統文化の復興なのか?それともいわゆる文化の低俗化なのか?」であった。
あるテレビの講座番組の製作者たちが、「テレビで伝統文化を語ることは、まるで漫才のようなもので、3-5分で要点をまとめて笑わせなければならない。そのため、学術は二の次であり、重要なのは娯楽性である」と率直に認めた際には、さらに多くの学者たちの「テレビによって、人は本当に娯楽にのみ込まれ、思考は死にいたる」ことに対する憂慮を深刻化させた。テレビ業界のすさまじい速度の発展に伴い、テレビに出演する芸能人たちは視聴者たちにとっての精神的なアイコンとなった。しかし、視聴者がテレビの娯楽化から受け取ったものは、伝統文化の真髄による満足感などでは全くなく、単にテレビ文化に対する強烈な心理的な依存と、それによってもたらされた冷静さに欠いたアイドル崇拝でしかなかった。
このほか、「学者の芸能人化」よりも恐ろしいのは、「知識のばら売り」であることを心配する学者もいる。これは、学者が商業モデルに屈して、非理知的な大衆文化のニーズに自ら迎合および加担してしまうことであり、また文化の規範が失われてしまった状態の中、大衆に向けて文化的ニーズが日増しに功利的で軽薄なものとなり、視聴者の好みにつけこんで、低俗化に歯止めがかからなくなっていくことだ。
実のところ、テレビメディアを介して広く伝統文化が放送されること自体は、良いことである。学者にとっては、書斎に座っていようと、大衆に向かっていようと、大衆にとっての良き学問や真の学問を提供し、視聴者により理性的で科学的な歴史の知識の系譜を与え、自主的に学術の低俗化を拒否することだけが、提唱するに値するものだ。一方、大衆にとっては、優れた伝統文化への尊敬と敬意を持ち続け、娯楽を文化産業製品の唯一の基準としないことによってしか、伝統文化の正確な位置づけを守っていけない。
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