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抗日戦争の体験者が語る戦争の記憶

 

呂淑君さん。1925年生まれの日本人残留孤児で、桂川君子という名を持っていた。現在は安徽省合肥市に住む。

1943年、高等小学校の8年間の学業を終えた呂さんは、両親とともに故郷を離れて中国東北部に赴き、吉林省延辺の開拓団農場での暮らしを始めた。2年後、日本が敗けて投降すると、開拓団の日本人は送還されたか、あるいは散り散りとなって逃げ出した。呂さんは逃亡途中で両親とはぐれ、その後二度と会うことはできなかった。

戦争は呂さんに大きな傷を残した。故郷に帰れなくなっただけでなく、家族とも生き別れた。そのことを思うたびに心が痛むという。呂さんはその後、ある解放軍幹部に嫁ぎ、中国の学校に入って、中国語を学んだ。1970年代末期になってやっと日本に帰り、兄らと再会を果たした。だが中国の生活になじんでいた呂さんは、中国に定住し、子どもたちと暮らすことを選んだ。

映写されているのは、1943年、中国に来る前の呂淑君さん(右から2番目)と姉や甥との家族写真(呂さん提供)。

 

 

李広濤さん。1914年安徽省合肥生まれ。現在は合肥市に住む。1936年5月に革命に参加し、1939年10月下旬、蘇皖辺区地区での新四軍の抗日闘争に参加した。

「淮陰抗日82烈士」のことを李さんはいつまでも忘れることができない。1943年3月18日、江蘇省の淮陰区劉老荘の新四軍第3師団第19連隊第4中隊の勇士82人は、淮海区の党政府機関を突然襲撃した日本軍と激しい戦いを繰り広げた。近くにいた李さんの部隊は支援を試みたが、日本軍の武力封鎖に遭ってこれを救出することができなかった。敵との圧倒的な力の差の下で、第4中隊の82人はすべて犠牲者となった。中華人民共和国建国後、李さんは合肥市と安徽省内で定年まで働きながら、勇敢に戦った「淮陰82烈士」のことを熱心に伝え続けた。

映写されているのは、新四軍第2支隊の将校と兵士による抗日戦争の決起大会の様子。(編集MA)

 

 「人民網日本語版」2014年7月8日

 

 

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