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万里の長城の西端、漢代玉門関の遺跡見つかる

 

【新華社北京7月26日】このほどシルクロード沿線にある万里の長城の西端、漢代の玉門関の遺跡が見つかった。著名な敦煌学者で西北師範大学教授の李併成氏が嘉峪関とシルクロードの歴史文化学術シンポジウムで発表したもの。李教授は、最古の玉門関は現在の場所よりも東にあったと指摘した。

玉門関は漢の武帝期(在位紀元前141年―紀元前87年)に長城が増設された際、現在の甘粛省敦煌市の西北に置かれた関所。名称は西域からの輸入品の玉に由来し、多くの詩にも詠まれているが、その所在地は長い間学界で論争の的となっていた。

李教授は「史記」、「釈迦方志」などの文献の研究で玉門関は当初、敦煌に置かれたのではなく、史料にある「故玉門関」の遺跡が存在すると結論づけた。方角、距離などの計算から、嘉峪関市の西北約1キロにある石関峡は文献中の記述にある「酒泉郡から1日の距離にあり、険しい渓谷と豊かな渓流が要害をなす」という地理条件に合致すると考えた。李教授は武帝の元鼎6年(紀元前111年)あるいはその少し後に置かれた玉門関は敦煌よりも東寄りで、今の嘉峪関市の石関峡にあったと指摘した。

李教授は「昨年7月、私は歴史学者と最古の玉門関を探索する調査に参加し、石関峡とその周辺で古い城跡、のろし台などの遺跡を見つけた。これらは石、版築、雑草などでつくる典型的な漢代の建設方式で、ここが漢代の玉門関の跡である証拠だ。専門家の多くもこの考えに同意している」と説明した。

戦略の変化で玉門関の場所も動いた。「太初3年(紀元前102年)に李広利将軍が初めて大宛(フェルガナ)を討伐すると、玉門関は酒泉郡から西の敦煌郡西北に移された」と李教授は指摘する。

後漢中期、瓜州から西の伊吾(現在の新疆ウイグル自治区ハミ地区)に通じる道ができると、敦煌を回る必要がなくなり、唐(7世紀ごろ)まで瓜州晋昌県疏勒河岸の双塔堡に玉門関が移された。

李教授は次のように説明した。政治、軍事的な必要性と交通ルートの変化で、五代から宋の初め(10世紀ごろ)、玉門関は瓜州の双塔堡から200キロほど東に移され、初めに関所が置かれた石関峡に戻った。

蘭州大学歴史文化学院院長の王希隆教授は「李教授が豊富な史料と実地調査で玉門関が時期によって動いたことを明らかにしたことは、玉門関研究で重大な発見だ」と話した。

 

「新華網日本語」より 2014年7月26日

 

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