南開中学時代の論文を日本語訳
文・写真提供=南開中学
日本語版『周恩来青少年論説集』が近く新世界出版社から出版され、2015年東京国際ブックフェアに出展される。
この文集は周恩来が中国・天津の南開中学在学中に書いた論文集の抜粋で、愛国、政治、名誉、志向、教育、戯劇、勤勉、学業、友情などを論じた論文をまとめたもので、青年周恩来の才気が随所に現れている。
1913年8月から1917年6月にかけて、周恩来は天津・南開中学で学んだ。同校は「国難故に生まれた」と評され、「中学の模範たれ」の学風を追求した。周恩来は同校での4年のつらい勉強を経て、遠大な志を持つ、人品、学業ともに優れた学生として成長した。当時、同校理事だった厳修は「宰相の器」と評し、校長の張伯苓は「南開中学で最も優れた学生」と讃えた。
1917年9月から1919年4月にかけて、周恩来は日本へ留学し、東京・神田区(当時)にあった高等予備学校で日本語を学んだ。その間、「新中学会」に参加し、その中心的な人物となり、マルクス主義と出合った。
日本留学中に周恩来は多くの詩を残しているが、最も有名な一首が『雨中嵐山』。「千年の古都」の風光を心ゆくまで見て歩き、書き上げた詩だ。嵐山の山中を歩いていた時、雲を突き抜けてきたひとすじの陽光が、眼前に広がる山水を一層、秀麗に描き出した瞬間をたまたま目にした。周恩来は触れ合ったばかりのマルクス主義思想に思いを馳せ、これこそが雲を貫き霧を払う陽光だと感じ、興奮と喜びにひたり、『雨中嵐山』を書き留めた。
雨中二次遊嵐山,
兩岸蒼松,
夾着幾株櫻。
到盡處突見一山高,
流出泉水綠如許,
繞石照人。
瀟瀟雨,
霧濛濃,
一綫陽光穿雲出,
愈見嬌妍。
人間的萬象眞理,
愈求愈模糊,
模糊中偶然見着一點光明,
眞愈覺嬌妍。
以下は蔡子民氏の訳;
雨の中を二度嵐山に遊ぶ
両岸の青き松に
いく株かの桜まじる
道の尽きるやひときわ高き山見ゆ
流れ出る泉は緑に映え
石をめぐりて人を照らす
雨濛々として霧深く
陽の光雲間より射して
いよいよなまめかし
世のもろもろの真理は
求めるほどに模糊とするも
――模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば
真(まこと)にいよいよなまめかし
中華人民共和国成立後、周恩来は中日関係の改善と発展に心血を注いだ。1972年9月25日~30日、田中角栄首相は周恩来国務院総理の招きに応じて訪中した。同月29日、中日両国政府は共同声明を発表し、両国間に横たわていた不正常な状態を終結し、正式に外交関係を正常化することを宣言した。その後両国は国交正常化を実現、両国関係の新たなページを開いた。1978年10月23日、『中日平和友好条約』が締結された。
周恩来逝去後、日本国民は中日友好事業建設における偉大な功績を称え、同時に『中日平和友好条約』締結を記念して、彼が足跡を残した京都・嵐山に周恩来総理記念詩碑を建立した。碑石には、廖承志中日友好協会会長が揮毫した『雨中嵐山』の全文が刻まれている。1979年4月16日、国会の招聘により訪日した、周恩来未亡人の鄧穎超全国人民代表大会常務委員会副委員長が京都を訪れ、詩碑の除幕式に出席した。
2013年8月、周恩来南開中学入学100周年の際、党中央文献研究室第二編集研究部と南開中学が共同で編注を加え、人民出版社より『周恩来南開中学論説文集』が出版された。今年年6月、新世界出版社の編集により、日本語版『周恩来青少年論説集』が出版された。
人民中国インターネット版 2015年6月26日
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