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周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって

 

三人の国会議員が扉を開く 

 

1959年10月、日本の自民党顧問の松村謙三氏(右)を歓迎する周総理
1952年4月、周総理はモスクワで開かれた国際経済会議に出席する中国代表団の正副団長である南漢宸氏と雷任民氏に、この会議に出席する3人の日本の国会議員である高良とみ女史、帆足計氏、宮腰喜助氏に対し中国訪問を招請するよう指示した。3人の国会議員は、日本政府の制止にもかかわらず、モスクワから直接、中国にやってきた。そして中日双方は、初めての中日民間貿易協定に調印したのである。この協定は金額こそ少なかったが、その意義は非常に大きかった。この3人の日本の友人の勇敢な行動が、中日友好の扉を開いたのだった。

 

3人の議員が中国を訪問したニュースは、たちまち日本中を沸き立たせた。人々は彼らから、新中国に関する直接の情報をすぐに聞きたかった。しかし、当時の日本政府は「旅券法違反」を名目に、彼らが大衆集会を組織するのを制限し、さらに彼らに処罰を加えると言いふらした。高良とみ議員は「どちらが正しく、どちらが間違っているか、国民に判断してもらおう」と、外務省の門前に座り込んだ。そして日本政府の陰謀を挫折させた。

 

モスクワ国際経済会議の後、中国と日本は前後して、国際貿易を促進する団体を創立した。中国国際貿易促進委員会はこのときに設立された。これらの団体は、すでに存在していた日中友好団体とともに、「封鎖と禁輸」に反対する運動や中日友好を要求する運動を展開した。これは中日両国の経済貿易関係を発展させ、中日国交正常化の実現を促すうえで、重要な役割を果たした。

 

1955年4月、アジア・アフリカ会議がインドネシアのバンドンで開かれた。周総理の指示で、廖承志氏が中国代表団に参加した。それは、華僑に関する仕事の必要からだけでなく、日本代表団との接触に着眼したからでもあった。なぜなら廖承志氏は日本の事情を熟知しており、日本の友人がたくさんいたからである。

 

日本代表団の団長は、当時の鳩山内閣の経済企画庁長官の高碕達之助氏だった。彼は日本が中国を侵略したとき、「満州重工業開発株式会社」の総裁をつとめていた。周総理と高碕氏との会談は、廖氏の手配で行なわれた。

 

会談は、当時の日本の状況や中日貿易を展開する必要性、その段取りから、国交正常化問題の解決や双方が直面する困難などまで話し合われた。互いに腹を割った意見の交換は、高碕氏の心を打った。

 

1960年代の初め、高碕氏は周総理の招きに応じて2回、中国を訪問し、岸信介内閣がつくり出した中日関係の膠着状態を打ち破るために貢献した。また高碕氏は松村謙三氏とともに、中日覚書貿易(LT貿易)の創始者となった。中日民間貿易関係が始まった後、連続4回、民間協定が調印された。さらに双方は、お互いに商品見本市を催し、「民間が協定し、政府がそれを支持し、官がつながる」という構想が打ち出された。

 

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