報道と実像との落差
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中国の崔天凱駐日大使(中央)は2月下旬、神戸の中華街で「うまい、うまい」と餃子を食べた
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80%以上の中日の人々は、主にメディア、とくにテレビを通じて相手側の情報を得ている。私は、中国の人々が日本に対して良くないイメージを持つのはいわゆる「愛国主義教育」の結果だという言い方には賛同しない。しかし、中国メディアの、現実の日本についての報道は、確かにまだ多角的ではなく、全面的で突っ込んだ報道も足りないと思う。
私は二十余年にわたってメディアと付き合う仕事に従事してきたが、中国政府も私自身もいろいろな試みや努力をし、いくらかは改善されたとはいえ、依然として不十分であると思う。『岩松看日本』(岩松が見た日本)のような、一見、製作手法が別に目新しくもないテレビのドキュメンタリーが、どうして中国で大きな反応を呼んだのか、その原因の一つはここにある。
中国メディアの対日報道に足りない面もあるが、日本のメディアの対中報道にも、時にはあまりにも度を越したものが多いと私は感じている。日本の本屋には、中国を攻撃し、罵倒する書籍や雑誌が一体どのぐらい並べられているかは言うに及ばず、中日の間にいったん「事が起こる」と、「政治家」とか「評論家」とか称する人たちがテレビで、いかに「ショー」を演じて見せるかは、皆さんご存知の通りだ。
瀋陽の日本総領事館事件と最近の「ギョーザ事件」は、よい事例だと思う。
2002年、瀋陽の日本総領事館に侵入しようとした人が、警備を担当している中国の武装警察によって断固として制止された。この事件は、日本の記者が事前に設置しておいたビデオカメラで撮影された。それに編集・加工が施されたあと、日本のテレビ局は何百回も繰り返し、それを放送した。
外国公館への侵入を許さないことは、どの国でも平常、行われていることであるのに、「テレビのショーマンたち」の手にかかると、「中国の武装警察が日本の領土を乱暴に侵犯した」政治事件となり、さらには声高に、中国政府に「謝罪」を要求するのである。
このような事態は、警備に当たった警察官たちにやりきれない思いをさせ、中国民衆を憤慨させたが、こっそりと喜んでいたのはただあの日本の記者だけである。彼は「ボーン上田記念国際記者賞」を受賞したからだである。
もう一つは、今年、中国の伝統的な祝日である春節(旧正月)の直前に発生したあの事件である。日本のあるテレビ局が、中国から輸入されたギョーザを食べた日本のある家庭で、中毒が起こったというニュースを報じた。一時は、さまざまな論議が日本国中で巻き起こった。日本の店に並んでいた中国製の食品は、続々と棚から下ろされた。
こうした一つの個別の刑事事件が、「テレビのショーマンたち」によって「中国の食品の安全問題」にされてしまった。大多数の中国人はこうした事件が発生したことを悲しく思っている、と私は信じている。なぜならそれは、人命にかかわる問題であり、中国製品の信用にかかわる問題だからだ。中国側はこの事件を重視し、緊急に品質検査の係官を日本に派遣して、日本側とともに事件に対する調査を行った。
私が強調したいのは、中日間の貿易額がすでに2300億ドルを超し、この数字は両国関係の密接さを表しているとともに、いつでもさまざまな事件が発生する可能性があることを示している、ということである。問題が起こった後、肝腎なのは、双方が「緊急に対応」し、「長期的に有効なメカニズム」を打ちたて、それが積極的役割を発揮して、誠意を持って速やかに問題の原因を究明し、すみやかに妥当な処理をして、最大限に損害を少なくしなければならないということだ。とくに、それによって両国関係に損害を与えてはならないのである。
問題を茶化したり、憶測でものを言ったり、ほしいままにつくり上げたりすることは、問題解決になんの役に立たないばかりでなく、かえって混乱を増すばかりである。事件が起こるのは仕方がないが、事件がつくり上げられてはならない。「小さな事を大きな事とし、大きな事を大事件にした」結果、両国民の感情をますます疎遠なものにし、簡単な問題をますます複雑にする。そして問題の解決の余地をますます狭くしてしまうのだ。これは必ずしもメディアがそうしようとして行ったものではないが、メディアが気をつけていないと、往々にしてこうした結果になる。
中日両国間をいつも行ったり来たりしている「関係者」として、私はずっと、自分自身で感じた両国の実情が、メディアの報道と大きな差がよくあることに、いつも困惑している。こうした差を縮小するのはメディアの重要な責任である。
最近、日本のメディアの中から理性的な声があがり始め、中国のメディアの対日報道も全面的で深みのあるものになってきたことを、私はうれしく思っている。
狭い「愛国」はマイナス
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福原愛選手(中央)、王毅駐日大使(当時、右から2人目)と筆者(左から2人目)
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最近、日本の友人から『和解とナショナリズム』という彼の新しい著作が送られてきた。その本の中では、民族主義が「排他」を前提にしてはならないことが強調されていた。
私は中国で、二つの奇妙なことに遭遇した。一つは、「拒絶日本貨(日本製品ボイコット)」と書かれたトラックが、ある大都市を公然と走っていることだ。もう一つは、先日行われたスポーツの試合で、一部の中国の観衆が、日本の選手の失敗に拍手をしていることである。
多くの中国人は、こんなやり方に不賛成だと私は信じている。なぜなら、これは文明の歴史の長くて客好きな国のイメージとも、「改革・開放」後の大国のイメージとも、かなりかけ離れているからだ。
私は日本でも同じような経歴をしたことがある。右翼の宣伝車が中国に反対するスローガンが掲げ、耳を聾するばかりのラウドスピーカーでいつも住民を驚かし、悩ませている。私自身、何回も銃弾や白い粉末の入った疑わしい郵便物を受けとったことがある。こうしたことは、規則を遵守し、謙虚で礼儀正しい日本のイメージと、あまりにも符合しない。私と同様に、大多数の日本人も、右翼のやり方に賛成していないと思う。
ある学者は、日本の右翼の国粋主義者と中国の「極端な民族主義者」を比較し、両者には多くの似通ったところがあると考えている。例えば、掲げる標語はいずれも「愛国」で、叫ぶスローガンはともに「反中国」あるいは「反日」、用いる方法はどれも「極端」である。その結果、主観的願望に反して、自国のイメージを傷つけることに直接影響している。この学者は、これらの人々に「愛国賊」という名前をつけた。
どの国にもこうした極端な勢力があるが、その人数はそう多くはない。しかし、影響は「限定的」とは必ずしも言えない。肝腎なのは、彼らは民衆の一部ではあるが、民意を代表しているわけではないので、政府がそれに影響されて関係する政策を定めてはならないということだ。そうしなければ、大多数の人々の正当な合法的な権利が侵害され、国の利益まで侵害されてしまう。
求められる「大きな知恵」
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記録映画『靖国』のポスター |
中国と日本の間には、歴史、台湾、東中国海など、多くの「敏感な問題」がある。両国政府と有識者はこれらの問題を解決するために、よいアイディアや方法をたくさん出すべきだ。論争を棚上げにし、共同で開発するというのは、鄧小平氏が出したよいアイディアである。事にぶつかったとき、とくに面倒な事にぶつかったときに、それを解決する良いアイディアがなくとも、大丈夫だ。まず「冷却化」して、問題を刺激して、複雑化し、平地に波瀾を起こしてはならない。
中国は、韓国との「敏感な問題」を解決するうえで、二つの原則をもっている。一つは、歴史問題を現実の問題にしないこと。もう一つは、学術問題を政治化しないことだ。
中日間の東中国海における油田・ガス田の開発問題は、新しく出てきた問題だが、メディアが煽ったため、たちまち中日間の、当面のもっとも難しい問題となった。両国の指導者はすでに、この問題の解決について重要な共通認識に達し、両国の事務当局の話し合いも積極的な進展を見せている。
私がこの問題を取り上げる意図は、この問題を解決するのはかなり難しくなってきたので、いっそう、両国政府の能力と知恵を体現すべきだというところにある。
あまり科学的根拠のない概念をつくり上げ、いまだ共同認識に達していない「中間線」を死守し、これまでには問題にならなかったことを前提条件に設定する。その結果、必然的に双方が動ける空間をますます小さくしてしまう。
中国には「トラの首の鈴を解くのは鈴をつけた人」(問題を引き起こした人がその問題を解決すべきだ)という諺がある。最終的に問題を解決するには、確かに「大きな知恵」や「大きな構想」が必要だと思う。
最近、非常にうれしいことがあった。私の友人の一人が10年の時を費やし、監督して、歴史をテーマとした記録映画『靖国』をつくった。この映画は、中国人から見ればかなり「敏感な」映画だが、日本からの支持と賛助を受けて、日本の映画館で上映することができた。このこと自体、度量と理解を反映し、政治と文化交流のカテゴリーを超越する「大きな知恵」を体現したものである。
胡錦涛主席の今回の歴史的な訪日は、中日関係の健全で安定した発展のために、新たな活力を注入するものである。私の友人である趙啓正氏の言葉を借りて言えば、回復中の中日関係は、ちょうど坂をのぼる自動車のように、アクセルをずっと踏み続け、気を緩めてはならない。まして前進する車輪の下に、石を置いてはならないのだ。(中国人民外交学会秘書長 黄星原)
人民中国インターネット版
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