馮昭奎 加藤嘉一
と き 2008年9月24日 ところ 人民中国雑誌社
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加藤嘉一さん |
「改革・開放」の30年。目覚しい中国経済の発展は、日本の経済的繁栄をもたらした。しかし、小泉内閣時代の中日関係は歴史認識を巡って悪化し、「政冷経熱」状況を生んだ。これを打開したのが昨年来の中日両国首脳による相互訪問である。これによって中日関係は新たな段階に進みつつある。
この30年の歩みを世界的な視野の中からどう分析し、位置づけるか。これからの中日関係はどう発展すべきなのか。中国の著名な日本研究者、馮昭奎さんと日本の留学生で国際関係を専攻している加藤嘉一さんに話しあってもらった。
紆余曲折の30年
馮昭奎さん(以下馮と略す) 「改革・開放」以来、中国は年平均成長率が連続9.8%以上という数字を残してきました。世界の中でかなりの大国になったと実感しています。もちろんこの「改革・開放」のプロセスが一直線に、順調に発展してきたとは思いません。例えば、1989年にあった「政治風波」です。「改革はどこに向かうのか」とさまよった時期もありました。ちょうどそのころ、鄧小平氏が「南巡講話」において、社会主義市場経済を推し進めていこうという方針を決めたのですね。私から見れば、チーフデザイナー(総設計師)・鄧小平氏の功績が非常に大きい。
加藤嘉一さん(以下加藤と略す) 鄧小平氏の手によって1978年、『中日平和友好条約』の締結が実現しました。彼が日産自動車の工場を見学したとき、「まさにこれが近代化だ」という言葉を残したのは印象的でした。そして、翌年の79年には、日本の対中ODAが始まりました。89年「政治風波」の後も、欧米諸国に先んじて最初に対中経済制裁を解除したのも日本でした。そう振り返ると、この30年間において、日本は基本的に中国の「改革・開放」を支持し、貢献してきたと言えると思います。
馮 中日両国の間には、矛盾もあれば協調もあり、対立もあれば協力もあると考えています。ただ、全体的に見れば、「改革・開放」30年以来、日本は中国に対してプラスの役割を果たしたと断言できます。
「改革・開放」と『中日平和友好条約』締結と並んで、私はもう一つの「三十年」があると思うのです。それは、鄧小平氏訪日の30周年です。鄧小平訪日の意味は、中国の「改革・開放」と『中日平和友好条約』締結という二つの事件と内在的に関係しています。
加藤 その記念すべき30周年の年に、胡錦濤国家主席の日本訪問が実現しました。胡主席は、7月の洞爺湖サミットも含めれば、今年だけで二回、日本を訪問しました。福田康夫首相も二回中国を訪問しました。「中日首脳の定期的相互訪問」は両国の政治関係を計る物差しでもあります。5月の胡主席訪日時には「第四の共同文書」も発表され、歴史の一ページを積み上げたと言えるのではないでしょうか。
昨今の中国の発展は平和的であり、また日本の戦後の発展は平和的だというコンセンサスの下で、「戦略的互恵関係」を全面的に推し進めていくという両国間の核心的な合意は、両国関係の進歩と言えます。
馮 「第四の共同文書」の一番重要なポイントは、中日両国が互いに相手を脅威でないと認めたことです。仮に両国が依然として互いに相手を「脅威」だと認識するとすれば、人類にとっての深刻な真の脅威に真剣に取り組めなくなります。
加藤 互いを脅威だと見る時代を乗り越えて、人類共通の脅威に対して、手を組んで取り組もうということですね。1989年から1991年は国際政治が目まぐるしく変化した時期でした。中国でも「政治風波」が起きて、同じ時期に冷戦が崩壊しました。1979年から91年の間、中日両国にとっての共通の脅威は疑いなくソ連であり、91年に冷戦が終結すると、両国は「共通の脅威」を失いました。そうした中で、中日関係にとっての不安要素、たとえば歴史認識問題なども表面化してきました。
馮 冷戦終結後すぐにではなく、徐々に不安定になってきましたね。
加藤 1991年以降は、「南巡講話」を皮切りに、中国の「改革・開放」路線も本格化していき、その一方で、中日両国は共通の脅威であるソ連を失い、新たな共通の戦略基盤を模索していく時代にシフトしていきました。
馮 冷戦終結後、中日だけではなく、日米同盟も敵を失ったはずですが、日米同盟はかえって強化されましたね。その背景の一つに中国の台頭があったと思います。日本の一部の政治勢力はソ連の代わりに中国を仮想敵国にしました。米国も、中国は怖い存在だというシグナルを出している。日本にとっての脅威は、中国以外に朝鮮民主主義人民共和国もありますが、国家のスケールとして小さすぎます。日米同盟にとって、冷戦期のソ連に匹敵する脅威は中国しかありません。同盟というのは、敵がいるからこそ、生命力を持つのです。敵がいなくなれば、同盟の生命力も自然になくなります。
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馮昭奎さん |
ODAが「改革・開放」をサポート
加藤 中国の「改革・開放」と中日関係とはどういう関係にあるのでしょうか。
馮 まずは『中日平和友好条約』の締結ですね。両国の平和共存時代のスタートを意味します。お互いに「覇権を追求しない」と誓い、と同時に第三国の覇権にも反対するというコンセンサスを得ました。「第三国の覇権」というのは当時のソ連に対するものです。当時、中国はソ連の脅威に直面していました。とくに1969年の「珍宝島(ダマンスキー島)事件」前後、中ソ関係は極度に緊張していました。
その後の中国の「改革・開放」は主に「西側」を対象とするものでした。これによって「開放の窓」が180度転換しました。東から西へ、つまりソ連・東ヨーロッパから欧米・日本にシフトしたのです。「改革・開放」のプロセスでさまざまな国家と交流をしていきましたが、その中でも日本の貢献がもっとも大きかったと考えます。
加藤 「中国の改革・開放と日本」という視点で考えると、日本の対中ODAが象徴的な存在だと思います。ODAが中国の発展や日中の経済・貿易関係に寄与してきたというのは両国のコンセンサスだと思います。日本の国内では、中国経済が発展し、台頭していく中で、「中国は十分に発展した」「もうODAは必要ない」といった意見も増えていきました。日本国民の対中認識も「中国はすでに支援する存在ではなく、むしろ注意しなければならない存在だ」というようになっていきました。中国が急速に発展していく中で、日本が如何に中国の「改革・開放」にかかわるのか、日中関係はより複雑で、難しい関係になってきました。
馮 ODAに関しては、約90%は円借款、つまり、返済しなければならないのです。日本は中国だけではなくて、多くの国に円借款を提供してきましたが、きっちりと返済していない国もかなりあります。それに比べて中国は、信義を守って返済してきました。
日本のODAが中国の「改革・開放」をサポートしたことは疑いもない事実です。ODAによって、中国の「改革・開放」は進み、市場経済が促進されました。特に、「改革・開放」初期、建設資金が極めて不足している状況で、日本の円借款は「雪中に炭を送る」役割を果たしました。
かつて日本と中国は「市場経済国と計画経済国」という関係でしたが、「改革・開放」により日本と中国は「市場経済国同士」の関係になりました。そうなるといろいろやり易い。だからこそ、貿易額が一気に伸びたのです。この30年間のうち、25年は日本が中国の最大の貿易相手国でした。現在、日本は3位ですね。1位は欧州で、2位は米国。ただ、欧州は国ではありませんから、国別でいえば、日本は依然として2番手です。直接投資に関して、日本の額は年々減っていますが、累計実行額はやはりトップです。また日本にとっては、中国が日本最大の輸出相手国です。
加藤 中国が市場経済路線にシフトして以来、日中関係がより「対等」になってきたと実感しています。日本が一方的に中国に対して援助の手を差し伸べるのではなく、市場経済同士の関係で、互いに対等な経済関係を築くようになってきました。
その意味で象徴的なのは日本の対中円借款中止です。今後の中日関係を考える上で、「ポスト円借款」という見方ができると思います。一方が与えて、もう一方がもらうという関係ではなく、より相互的、互恵的な交流を展開していく時期にはいっていくのでしょう。
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