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郭沫若とゆかりの地

郭平英=文 郭沫若記念館=写真提供

郭沫若先生の娘、郭沫若記念館の館長郭平英女史(写真・馮進)

編者注 中国現代の著名な文学者、古代文字研究家、歴史学者、国学の大御所、郭沫若先生は、青年時代10年日本に留学し、後にまた10年滞在したが、日本の岡山は1915年から1918年までの旧制高校時代の母校の所在地である。今年はたまたま郭沫若先生の日本留学95周年にあたり、中日両国の民間文化芸術交流をさらに推し進めるために、岡山県立美術館館長鍵岡正謹先生の要請を受けて、北京の郭沫若記念館と日中友好交流促進協会が共同で、6月5日から8月23日まで、岡山県立美術館で「中日友好の使者―郭沫若展」を開催することになった。

そこで、本誌では北京郭沫若記念館(北京什刹海前海西街18号)館長で、郭沫若の娘である郭平英女史にご執筆いただいた。(文中敬称略)

後楽園と丹頂鶴

1956年7月3日午前、中国からの第13次引揚船―興安丸が日本の京都府舞鶴港に入港した。船上には335名の中国政府から赦免された「戦犯」の日本人とは別に、特別な「旅客」――中国の東北地方から来た一対の丹頂鶴が乗っていた。これこそが半年前に代表団を率いて岡山を訪れた、当時中国科学院院長であった郭沫若が岡山の後楽園に贈った贈り物である。

7月4日の夕方、二羽の丹頂鶴は汽車に乗り換えて無事岡山に着いた。三木行治岡山県知事をはじめとした岡山県人の暖かい歓迎を受けて、すでに準備万端整った後楽園の新居に移り、しかもこの中国からの使者は日本風に「チャメ」と「クロメ」と名付けられた。

1961年春、三木行治知事は岡山の熱心な友人たちと後楽園に詩碑を建立した。郭沫若が一対の丹頂鶴を贈ると承諾した五言詩が記念として碑に刻まれていた。

後楽園仍在、烏城不可尋。  

愿将丹頂鶴、作対立梅林。   

訳 留学時代が懐かしい後楽園も、 戦争で城を失った今の眺めは寂しい 限り。せめて鶴を立たせて後楽園の良 き伴侶としたい。(岡山後楽園の公式サイトより)  

「チャメ」と「クロメ」が日本に着いた時はまだ2歳だったため雌雄の判別ができなかった。6歳になってやっとこれが一対の姉妹であることが分かった。毎年卵を産むが、孵化することはなかった。1975年この一対の姉妹は北海道の釧路市動物園に送られ交配した。1977年9月25日「チャメ」は皮膚病で死去。岡山県人はこれを剥製標本にして「鶴鳴館」に飾っている。

1937年夏、家族と写真におさまる郭沫若(左から2番目)。その後、「七・七」事変が勃発し、7月24日、日本警視庁の監視を逃れて、郭沫若は単身祖国に帰った

残った「クロメ」は1978年5月14日に産卵。岡山県人の老朋友である郭沫若が病没して数日後、一対の中日友好の象徴となる新しい生命が、人工孵化により殻を破って誕生した。「クロメ」という正に世話上手の母親が、1980年、1982年と続いて第二、第三の雛を育てた。現在、「クロメ」は彼女の三羽の娘たちと一緒に後楽園で静かに暮らしている。

初めての上京

1912年の春節(旧正月)が過ぎたばかりのころ、辛亥革命の民権運動が高まっていた真っ只中の郭沫若は悔いても余りある、ある婚姻に煩わされていた。当時、20歳にもなっていない彼は、親孝行のため、父母が伝統的な作法に基づいて選んだ全く字も知らない纏足の女性と結婚した。郭沫若は結婚後五日目に、居たたまれなくなって家を離れ、四川省の省都・成都にもどり、学業をつづけた。

翌年中学を卒業した郭沫若は、はるか遠くにある天津陸軍軍医学校に受験を申し込んだ。思いもよらなかったのは、百人ほどの受験生を待っていたのが荒唐無稽な試験問題で、その学校の教学レベルに疑問を持たざるを得なかった。

郭沫若は思い切って軍医学校の入学資格を放棄し、北京に行き、兄・郭開文の元に身を寄せた。開文は日本に留学したことのある清の挙人(科挙試験の郷試に合格した人)で、もっとも早く啓蒙思想を故郷の四川省楽山市沙湾鎮にもたらした知識人であり、当時は「川辺経略使代表」という身分で北京に駐在していた。

郭沫若は九州大学医学部を卒業した。1955年、郭沫若が九州大学に再び帰った時、「実事求是(事実に即して真理、真実を探求する)」と書いた

1949年6月中国人民政治協商会議準備委員会成立。郭沫若(2列目の右から3番目)が副主任、宣言を起草した。写真は、毛沢東(前列左から4番目)、朱徳(前列左から3番目)、周恩来(2列目左端)など準備委員会全員の記念撮影

郭沫若は北京に50日間ほど滞在し、兄とともに四川の同郷の家に間借りした。その人は高等審判庁の審判官で、家は吹帚胡同(横町)にあった。今は北京市の地図にはないが、およその方角は人民大会堂の北門より北側の長安街上にあたる。そこは建国後の北京市都市建設のとき、最初に取り壊された一連の町である。郭沫若の自伝『初出夔門』の中の描写と一致し、胡同を出ると中華門前後の宮廷で、前門や大柵欄に近い。郭沫若は吹帚胡同の四合院の南側の部屋で読書をしていた。

12月25日、兄の郭開文は郭沫若を日本に送り、官費の援助のある学校に入学させることにした。翌日の晩、郭沫若は兄がかき集めた半年の生活費をもち、全線が開通したばかりの京奉(北京―瀋陽)鉄道に乗り、瀋陽、丹東を経て朝鮮半島を経て、釜山から船に乗ってさらに東へ向かい、日本での留学生活を始めた。

数年後、日本で医学を専攻する郭沫若はドイツ語を勉強するかたわら、大量の欧米文学を貪り読んだ。「五・四運動」(1919年)の荒波の下で、時代のリズム、灼熱の心情をもって中国文壇に登場した。彼と日本留学青年たちが結成した「創造社」は、中国現代文学の舞台で大きな足跡を残した。

その後の人生を振り返って、郭沫若は自分の成長は当時の兄からの賜物だと言ったが、正にその通りである。

 

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