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郭沫若とゆかりの地

 

西四大院胡同5号

1949年2月、郭沫若は新しい政協の準備会議に参加するため香港を離れ、瀋陽経由で久しぶりに北平(北京)に入った。北平はすでに平和的に解放されていた。同じく到着した各界の著名人たちと汽車に乗り正陽門駅に向かった時、郭沫若は思わず涙があふれた。この地を出てから、いつのまにか35年が経ったが、中国は大きく変わった。

香港から北平にやって来て団欒するはずの妻と子どもたちを待ちきれず、郭沫若は中国代表団を率いてチェコの首都プラハで開かれた世界平和大会に参加したり、新政協宣言を起草したり、中華全国文学芸術工作者代表大会の開催を主宰したり、中国科学院の成立に取り組んだりしていた。翌年に入って、ようやく仮住まいの北京飯店を離れ、北京西四大院胡同5号に家を構えた。

満城漢墓にて。1968年文化大革命の逆境の中、70歳を超えた郭沫若が河北省の満城で前漢の中山靖王劉勝墓の発掘現場を視察

1972年9月末、日本の首相田中角栄一行が中国を訪問。28日、郭沫若(右端)は田中首相(右から2番目)の故宮参観に付き添う。翌日、中日両国は共同声明を出し、国交が回復した

庭の真ん中に灰色のレンガ造りの小さな建物がある。一階の間取りは対称になっている。客室を真ん中に、東と西はそれぞれガラスの衝立で仕切られている。東は書斎、西は家族の居間、寝室は廊下の北側にある。二階は、南にベランダがあり、北側は同じ大きさの四部屋に仕切られている。夏、ベランダの床の熱がそのまま一階に広がるため、建物の向こう側にある、街の通りに面した南の間が郭沫若の夏場の創作場所になった。この部屋は日陰になり、そばの一本のアカシアの木がちょうど日よけ傘のように日差しを遮った。

1950年から1963年まで、郭沫若はここで14年間を送った。この間、古典の整理では『管子集校』や『再生縁』、文学と歴史を論じた『「随園詩話」の読書メモ』や『駱駝集』などの作品もこの時期に完成したほか、『蔡文姫』と『武則天』の二冊の著名な歴史劇、唯一の映画の脚本『鄭成功』もここで改訂、脱稿した。大院胡同5号は確かに多産の地であった。残念なことに、郭沫若が大院胡同から引っ越しした後、5号の建物は取り壊され、跡地に二棟の宿舎ビルが建てられ、番地も5号から9号に変えられた。郭沫若といっしょに十数年間を過ごした、通りに面した南の間とあのアカシアの老木は幸い残っているが、にわか造りの小料理屋にぎっしりと囲まれ、もとの姿は皆目分からない。

前海西街18号

什刹海体育運動学校の西側、前海西街と北海公園の静心斎とは、平安大通りを隔てて南北に向かい合っている。前海西街の南端から北へ少し行くと、道の中ほどに目隠しの壁があるところ、そこが前海西街18号で、郭沫若が晩年を送った場所である。

1970年代、前海西街の仮住まいの花園での郭沫若

かつての清の乾隆皇帝腹心の大臣、和の庭園で、その後恭王府の飼葉倉庫になった。大いに栄えていた恭王府も1911年10月10日の辛亥革命の後、衰える一方で、恭王府の最後の主人、恭親王奕訢の一番上の孫である溥偉は、復辟の活動費を集めるため、1921年に屋敷と庭園を抵当に入れ、天主教会からお金を借りた(1937年にこれを輔仁大学に売り、校舎に改造された)。1922年2月末、屋敷の外側の南東部の家屋敷は達仁堂に売られた。それは前海西河沿路3~8号の六つの家屋敷で、敷地面積は14ムー(1ムーは6.667アール)。達仁堂の副社長の楽肇基が表に出てきて、1万6000元の銀貨で買い取った。

1965年、北京市は統一的な規格で街道の名称や番地を改めた。この通りは西河沿から前海西街に、番地は8号から18号に変えられた。

郭沫若は花や木を愛し、自然に親しむ人である。1963年から1978年まで、前海西街18号で過ごした15年間で、この四合院内の花や木はますます生い茂った。主人が世を去った後、故居は全国重点文物の保護対象として完璧に保存され、1988年から一般市民に公開されている。郭沫若と于立群の子どもたちが政府に寄付した1万6000点の文物や資料は、郭沫若記念館の収蔵品となっている。

郭沫若記念館へ

郭沫若の旧邸宅を訪ねると、心が安らぐ。レンギョウや、海棠、牡丹、フジ、タマノカンザシなど、それぞれの花が庭園の四季を彩る。鳥が木々の間を飛び、草むらでついばむ。芝生には郭沫若生前のコレクションであった石洗(毛筆の墨を濯ぐ器)と一対の石獅子と二つの古時計が庭のあちこちに置かれていて、型にはまらない持ち主の風雅な趣が漂っている。

早春には、山坂にうす紫の蕾をつけるショカツサイ(ハナダイコン)が一斉に芽を出す。秋に銀杏の葉が黄色に染まるころはさらに壮観である。郭沫若は銀杏を「中国人文の生命ある記念塔」と例えた。今庭園に10本の銀杏が植えられており、晩秋になると庭園全体が黄金色に染まる。その中でも一番人の心を魅了するのは、芝生の中の幹にまだら模様のある「母の木」である。それは夫人の于立群が病苦から立ち直るように、郭沫若が祈りをこめて植えたものだという。郭沫若の銅像はこの枝葉が茂る銀杏の木の下に座っている。両手を膝に置き、目は前を見、その悠々自若の姿はまるで木や風と、またやって来る人々と話を交わすかのようである。銅像の作者は司徒兆光であり、1988年6月12日の記念館の開館の日に銅像も落成した。

故居の中にある郭沫若銅像。1988年6月12日の記念館開放日に落成(写真・馮進)

郭沫若故居の中の垂花門(写真・馮進)

垂花門を入ると、郭沫若が生活と仕事をしていた客間、書斎、寝室そして夫人の于立群の書道室があり、四合院の北側は原状のままの陳列室である。真ん中は郭沫若の客間。ソファーは馬蹄形に置かれている。ソファーの後ろには有名な山水画家傅抱石によって描かれた大作「郭沫若、九竜淵に遊ぶ詩情を写す」がある。その巨幅の山水画の下に主人お気に入りの石がいくつか陳列されている。天然の味わいのある孔雀石、拳骨に似た玉石……郭沫若は石を愛する気持ちを詩歌に託した。「私も石を愛する人、愛するのは石の性が堅いからだ。たとえ砥石に遭おうとも、形は円くなるが、内なる角は変わらない」

郭沫若はこの客間で、日本から訪ねてきたたくさんの友人をもてなした。周恩来や文化教育科学の各分野の同僚たちとここで仕事をしたこともある。

客間の東は郭沫若の仕事場と隣接している。本箱は西の壁にずらりと並べられ、その上には『西江月・井岡山』という毛沢東の真跡が架けられている。反対側には毛沢東の詞『沁園春・雪』を写した于立群の隷書掛け軸が中央に掛けられている。南側の窓の下に二つの机が向かい合って置かれており、郭沫若は東側のを愛用した。

机の上の補聴器は郭沫若にとって欠かせない助手であった。彼は16歳の時に腸チフスにかかって聴覚神経にダメージをうけた。南昌蜂起に参加した後、また発疹チフスにかかり、命は取り止めたものの、ほとんど聴覚を失った。しかし、聴覚障害が却って彼を研究と文学創作に専念させた。中日戦争の時彼は自分の体験をもとに青年たちにこう語った。

「この障害を通じて、自分があきらめずに勉強に励み、力を尽くして欠陥を補おうとさえすれば、たとえ欠陥があっても成功を遂げることができる」

建国後、生活が向上してから郭沫若は補聴器を使うようになった。

書斎机に近い窓の前に古びた日本式の木箱が一つ置いてある。1920年代末、郭沫若は国民党政府に指名手配され、日本に逃亡せざるをえなくなった。彼は驚くべき速さで詩人から古代史研究分野へ方向転換し、わずか10年もしない間に、『卜辞通纂』や『両周金文辞大系考釈』『石鼓文研究』などいくつかのハイレベルな学術著作を完成させた。これは学術分野の奇跡とされている。これらの著述は古代文字と古代器物研究、古代社会形態を結びつけたもので、唯物史観に基づく中国古代史研究のモデルとなり、また殷(商)の卜辞と西周、東周の青銅器を整理研究する科学システムも創った。

郭沫若と夫人が庭で瓜や豆を植えた所(写真・馮進) 郭沫若の書斎

1937年に抗日戦争が全面的に勃発した後、郭沫若は古代文字の著述の原稿を全部日本に残したまま、ひそかに中国に帰って抗日戦争に参加した。1957年にようやく東中国海を渡り、20年ぶりに作者の手元に戻った。この艱難、紆余曲折の足跡を記念するため、郭沫若は原稿の題名を『蒼海遺粟』とした。

郭沫若は晩年、黒いベークライトの墨汁入れ、北京印の紺のインク、普通のイタチの筆など中国ではありふれた文房具で、「文革」中に死んだ2人の息子・世英と民英の日記を8冊抄録し、父親として果てしない愛と悲しみを抄本に書き込んだ。同じくこのありふれた文房具を使って、郭沫若は『蘭亭序』の真偽に関する弁論を始め、生涯最後の訳作である『英詩訳稿』を訳し、また『李白と杜甫』を書き、人々の四人組粉砕の喜びと歓呼を書いた『東風第一枝』も完成させた。

前列の正房(北房ともいう)と後罩房(正房の後ろに立てた建物で、未婚の女性や侍女が住む)との間に南北が狭くて東西が長い小庭がある。そこに郭沫若と夫人は毎年一緒に瓜や豆、自給自足のできるヘチマとニガウリのほかに、蛇瓜もいくつか植えた。その蛇のような瓜はお客の興味を一番そそった。

瓜棚を通り抜けると、後罩房の真ん中に于立群の書道室がある。郭沫若はいつもここで夫人と一緒に書道を練習した。壁の三面には二人の傑作が飾られ、互いに輝きを放っていた。左手には于立群の小篆の掛け軸が、右手には郭沫若と于立群が力をあわせて書いた青銅器拓本の題辞と跋文である。そして真正面に郭沫若の行草『詠武則天』である。郭沫若の書は書法に深みがあり、独特な風格があるので「郭体」と称される。墨蹟『詠武則天』は彼の行草の代表作であり、文章の翻案が好きな気質と書家の古の知識を別の形で生かす洒脱さが、行間に漂っている。

当時の会議室、秘書の事務室、家族の住居にあたる部屋は、すでに陳列室に改装されており、廂房(母屋の前方の両側の棟)と後罩房の東西側の部屋に掛けられている。赤と緑が交互になっている抄手回廊(左右両側が手を組んだようになっている渡り廊下)がすべての展覧室をつないでいる。簡潔な説明が施されているおかげで、1892年に生まれ、1978年になくなった、この中国20世紀の思想文化の舞台で脚光をあびてきた文化の偉人・郭沫若の歴史絵巻を立体的に参観者に見せることができる。

「私は松の態度に倣って自分の年齢を刻み込み、両腕で抱えきれない大木となって天下の労働人民に木蔭を提供したい。たとえ途中で雷に当たったり枯れたとしても、その亡骸を貧しい人々が暖まる薪として捧げたい」と郭沫若氏は最後に穏やかな独白で参観者たちに別れを告げる。

 

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