「保八」で国内市場を創出
米国発の金融危機の影響を受けて、世界経済の低成長、または停滞の可能性が濃厚となった2008年の暮れ、中国政府は12月8日から10日まで中央経済工作会議を開き、「経済の安定」「しかも比較的速い発展」を2009年の経済政策の重要課題とし、「保八」の目標を決定した。
その後2009年に入ると、国際経済はさらに悪化し、その影響は中国へもじわじわと及んできた。輸出入ではそれがとくに顕著だった。
北京にある在中国日本商工会議所では、月に一度、部会を開き、会員企業間でいろいろな情報を交換しあっている。「欧米市場への中国の輸出は振るわない。2007年の中国のGDPは、少なくとも38%は輸出によって達成されたものだった。今年の『保八』は大丈夫だろうか」。5月の例会で、ある会員企業のトップは、隣に座った会員企業のメンバーに小声で問いかけた。
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成都で開かれた第4回目の中日ジャーナリスト交流会議では、参加者の代表たちが四川省の若者たちと活発な交流が行われた(写真提供・四川省新聞辦公室) |
その背景には、日本の本社から中国市場での売り上げを維持し、可能なら拡大していくようにという強い要望があったからだ。「保八」の方針は日本にも伝わり、中国がそこまで成長できるのなら、日本の国内市場での販売より中国経済の成長が高い可能性があると、本社側は考えている。しかし、中国の現地で生産した製品は、輸出の部分が減った。新たに中国の国内市場を開拓するには時間がかかる。果たして本社からの強い要望に応えられるだろうか、と多くの企業は迷いを隠せなかった。
輸出の不振について、日系企業は敏感に反応した。2009年の初めから、一部の日系メーカーは人員整理を始め、春節(旧正月)の後、その速度を速めたいと思ったが、なかなか決心できない企業もたくさんあった。
「日本の状況を知っているので、中国の消費は冷えていくだろうと思ったが、それほど減らなかった」とある自動車部品メーカーの担当者は言う。この企業では年初に「一挙に人を整理した」が、5月のゴールデンウィークに車が売れたのを見て、「7月から人を増やす方に転じた。だが今度は、沿海部では人がなかなか見つからなくなってしまった」と担当者は嘆く。
中国は年間1000万台の車の生産を2009年に達成し、米国に替わって世界一の車生産大国になる見込みだ。しかし自動車の普及率は5%にも達していないのが中国の現状である。
しかし「保八」は、自動車が中国で継続的に売れることを意味する。これはまた、電気・電子、セメント、鉄鋼などが生産を伸ばしている背景でもある。「保八」は、輸出に依存するのではなく、国内市場を徐々に創出し、GDPの成長率を輸出依存から少しずつ抜け出させることを意味する。
もちろん、対外貿易はやはり中国にとってきわめて重要であり、中国は、国際経済の環境が好転するのを期待している。また、日本の変化を中国は注意深く見守っている。
意外に速い 日本の変化
日本社会では、中国を見る目が少し変わってきているように感じる。
評論家の大前研一氏はその著書で、「改革・開放路線の中国を見て、中国の将来性に関してずっと否定的だった私は、1998年の朱鎔基改革を機に、新しい中国の研究を始めた。そして中国脅威論が盛んなときに、私は中国お客様論である『チャイナ・インパクト』を上梓して、中国の大発展を予言した」と書いている。このように、現場に足を踏み込んで中国の現実を見る人が、日本で徐々に多くなってきた。
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11月3日、大連で開かれた『北京・東京フォーラム』に出席した(写真右から)中国国際出版グループの周明偉総裁、中国日報社の朱霊編集長、中国人民対外友好協会の陳昊蘇会長 |
中国も2003年ごろから、日本に対して「新思考外交」を推進しようという主張が出てきた。ただしその後数年、中日の民間レベルは、感情の面できしみが生じ、それをスムーズに積極的側面へ転換させられなかった。このころから両国関係は徐々に冷えて行った。 中日関係を示す象徴的な言葉として、2003年から2006年の間の「政冷経熱」がある。政治関係の冷え込みによって、「本来、中国の経済成長は、日本企業に大きなビジネスチャンスを与え、日本企業も中国で『大成功』を収めていたはずだったが、それが『成功』だけに留まった」と評論家の馮昭奎氏は言う。
こうした状況を打破するには、外交方針の転換を待たなければならない。日本外務省スポークスマンの児玉和夫氏は、2006年に中日両国が確認した「戦略的互恵関係」を重要視して、「両国は違いを違いとして認め、違いを克服していくことこそ外交である」と語っている。
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