常俊池=文・写真
「日中友好会館中国後楽会訪日団」が東京に向かい、日本での七日間の旅が始まった。この訪日団は、日中友好会館が理解を深め、友好を広げるため、以前後楽寮に住んだことのある九人の寮生を招待したもの。私は幸いにも一寮生として10年ぶりに日本を訪れた。
懐かしい故地
北京を出るとき晴れてはいたが寒さが身にしみた。ところが午後成田空港に着いたときは、小雨がそぼ降り、水を撒いたようで、東京の海洋性気候と北京の大陸性気候の明らかに違う。東京の爽やかな空気が、私たちに一足早い春を感じさせた。
ゆかりの地を訪ねるということで、先ずは日中友好会館別館―後楽寮を訪ねる。十五日のその夜、後楽寮事務室と後楽寮寮生委員会が私たちのために行った歓迎会はここで開かれた。会議の後、私たちはかつて住み生活していたところを見て回る。なじみの長い廊下、受付、資料室、地下食堂に行き、 365日(1998年10月~99年10月)行き来した階段を上り、前に住んでいた部屋のドアを開ける。部屋の主は変わっているが、中の机、ベッド、小さな冷蔵庫、一切が昔どおり。ただ十年前に比べて綺麗で、きちんと整理され、壁と床が昔よりピカピカと光っていた。聞くところによると1998年以降、3年間にわたって改装したり改築したりしたそうだ。
その後、私は後楽寮や周辺を行き来している内にあることに気がついた。隣りのトヨタ株式会社の周りの景色や、私が留学した御茶ノ水女子大学のキャンバスの教室、大講堂、図書館、学生食堂、池を泳ぐ錦鯉、その建物や石、一草一木に至るまでどれも十年前と同じように鮮やかで美しく、歳月を経た感じがしない。日本の物に対する保護のあり方と、しっかりした建築に改めて感心した。
「周恩来ここに学ぶ」
1919年4月に周恩来総理が京都に残した『雨中嵐山』という詩のことは多くの人々が知っているし、さらに京都の嵐山の亀山公園に行って周恩来の詩碑を観賞した人もいる。ところが1917年から1919年まで周総理が東京で学んだところ「東亜高等予備学校」を知っている人はほとんどいない。「周恩来ここに学ぶ」と刻んだ記念碑は、神保町書店街に近い「神田町愛全公園」内にあり、「高齢者活動センター」と隣り合っている。東亜高等予備学校はずいぶん前になくなり、この記念碑と碑文は12年前、周総理の誕生百周年を記念して千代田区日中友好協会が学校跡に建てたものである。10年前、ある日中友好協会の方が私をここに案内してくれた。今、ここは静まり返って人びとがタバコを吸いながら一服するところになっている。
中日両国の文化交流の歴史は長く、昔から今に至るまで文化交流と経済貿易は絶えたことがない。そのころ、周恩来、魯迅、郭沫若などを初めとする中国の大勢の大志を抱いた青年が日本に留学し、国を救い民を救う道を求めていた。現在、時代は異なるが、目的は同じである。一代一代の留学生たちが帰国後、祖国の建設や中日友好のために、それぞれの職場で頑張っている。
夜の小雨の中、私は水道橋駅から南へ神保町書店街を歩いた。かつて歩いた道は今でも、夕暮れの中でも迷わずにたどり着き、三省堂書店で、何冊かの本を買い求めた。ちらちらするネオンがじくじくと湿った街路を照らし、色とりどりの光が反射する。なんとうっとりさせる景色だろう。両側にずらりと並んだ店舗のガラス越しに、食事をとる人、読書する人、忙しくお客の世話をする店員の姿が見える。かつて留学していたころの勉学に勤しむ自分の面影を垣間見るようだ。
「浦島太郎」になっちゃった
「浦島太郎になっちゃった」これは日本の友人Sさんと十年ぶりに会ったときに交わした最初の言葉である。約束の時間は十一時半だったのに、十二時半にやっと私の泊っているホテルにやって来た。日本人と会う約束をして、こんなことはめったにない。この友人は別れて間のない数年間は病気でほとんど外出できず、病気が治って町へ出てみると、余りに変わっていてよく分からなくなっていたという。以前はすぐに探せたここも、何度も人に尋ねてやっとたどり着いたそうで、まるで自分がおとぎ話の「浦島太郎」になったみたいだと笑って言った。海の中の龍宮に入って数年、外の様子が別世界になっていたという話である。
十年後東京にやって来た私は、まさに「浦島太郎」ではないだろうか。東京のどこを見てもとっても新鮮で、例えば、中国では歩行者道路と車道を分けているが、東京の一部の道は黄色のレンガと灰色のレンガで歩行者と自転車の道を分けている。地面に書かれた「路上喫煙禁止」の標識、「女性専用車」とか、老人乗客の多いバスなどは、私には新鮮に映る事物である。
もっとも変わったと感じるのは大江戸線地下鉄である。10年前にはまだなかった。今はその飯田橋駅は日中友好会館から100メートル。とっても便利な駅である。全長47キロメートルの大江戸線は東京を一回りしていきおい良く西へ伸びていく。東京ドーム前に聳え立つ43階建ての東京ドームホテルは私にとっては新鮮、留学していた当時はまだなかった。その隣の競馬会館も新しく建てたようで、かつて会館周りや道端に座り込んで競馬新聞に没頭していた人々は、今は見かけない。
カメラを取り出しては、めずらしい情景を収めた。
一衣帯水の旅行ブーム
ある日、日本の友人と水道橋駅へ行く途中、水道橋駅前の小さな路地の両側に多くの人々が立っている。
友人は「今はちょうど春節の大型連休を使ってたくさんの中国人が日本へ旅行に来ているの。テレビでもさかんに報道していて日本人の間ではちょっとした話題になっている」と言う。そういわれれば、たしかに同じ飛行機に乗り合わせた乗客がほとんど中国人であることを思い出した。そして今回の旅ではよく中国語がちらっと耳元に流れてきたし、中国人家族が料理屋のガラスケースの前に立ち、相談をしている様子などもよくみかけていた。
日本政府は中国が日本にとって一衣帯水のもっとも大きな観光客市場であるとして、中国の観光客招致のために、いろいろと努力している。例えば、空港やホテル、店舗、観光スポットなどには中国語の説明が施され、中国語を話せる店員も増えた。おかげで今回の旅行は以前より便利になった感じがする。
ただ私は地下鉄やJR線をよく利用したが、ちょっと気になることがある。十年前の親切で熱情のこもった駅員の態度が少なかったような気がする。彼らに何かを尋ねても、表情がほとんどなかった。日本語の分かる私でさえも不便さを感じたが、日本語が分からず、知人もいない、土地にも不案内な中国の観光客ではなおさらだろう。心のこもった対応と暖かいサービスが望まれる。
﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡ ﹡
一週間の旅行はあっという間に終わり、21日午前11時、団員たちはロビーに集まった。みんなの増えた荷物を見た誰かが「私たちも日本経済に貢献したのね」と微笑んで言った。
訪日団のためにいろいろ世話をしてくれた後楽寮事務室の鈴木繁室長、周暁光次長ら友好人士と私たちは記念写真をとった。名残を惜しみながら、彼らに、東京に手を振って「さようなら、友達、さようなら、日本! 中日友好の花は必ずいつまでも咲くでしょう。私たちは中日友好のためにまたがんばります」と別れを告げた。
人民中国インターネット版 2010年10月
|