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中日のジャーナリスト 「不惑の年」 沖縄で提言

王衆一=文・写真

2012年6月2日から6日まで、中国国務院新聞弁公室と日本側の電通、テレビ朝日との共催による第7回中日ジャーナリスト交流会議が沖縄で開かれた。今回は日本では初の地方都市開催であり、地方色豊かな活動だった。テーマは中日国交正常化40周年と沖縄の本土復帰40周年を背景として展開された。ここでは、中国側出席者の沖縄での見聞、印象の断片、また沖縄県民との交流、会議での討論の概要をご紹介したい。

世界各国への橋渡し役──

北京から沖縄へ、午前8時に離陸し、正午に那覇に到着した。日本側事務局の皆さんはすでに、東京から到着し、われわれを待ち受けており、沖縄県庁職員と当地の旅行関係者らが、こぞってわれわれ一人ひとりの首に鮮やかなレイを懸けて歓迎してくれた。沖縄県民の熱意ともてなしに感動した。

空港で沖縄県の関係者に迎えられた中国側代表ら(写真・孫冉)

タイトな視察日程はこのようにして始まった。全日空の那覇空港貨物ターミナールは現代沖縄の一つの側面を感じさせてくれた。視察当時、折悪しく台風が上陸し、大雨に見舞われていたため、貨物ターミナルはかなり空いていたが、多数の貨物機の貨物の積み下ろし作業が忙しく行われている光景を十分に想像することができた。物流センターの説明によると、毎日深夜に日本各地から貨物が空輸され、ここで直ちに仕分けされ、香港、上海、マニラ、ソウルなどアジア各地に輸送されているという。

今世紀に入り、東アジア、東南アジア地域の平和と発展が持続してきたことに伴って、特に中国などの新興国の勃興によって、沖縄はアジアにおける物流中継地としての役割をますます増してきたそうだ。この巨大な物流センターはまさに時運に乗ったと言えるだろう。沖縄の友人が大声で、沖縄は21世紀の「万国の津梁(渡しと橋)」になる、とわれわれに語った。

嘉数高台を案内してくれた田原総一朗氏(右から3人目)(写真・孫冉)

平和祈念公園とひめゆりの塔では、戦時中に沖縄県民が受けた苦難、彼らが戦中戦後に支払わされた代価を目の当たりにした。平和祈念資料館に陳列されている遺品、写真、静かにともる鎮魂のともしび、ひめゆりの塔の洞窟前に手向けられた千羽鶴は、いずれも戦争の残酷さと平和の大切さを語りかけているようだった。

沖縄県民の表情から、今も何か釈然としないものがうかがえた。沖縄復帰40周年の今でも、多くの地元の人から普天間米軍基地の移転問題を耳にした。われわれが同基地から目と鼻の先の嘉数高台に着いたとき、テレビ界のベテランキャスター田原総一朗氏が一足先に到着し、展望台の前でわれわれを待っていた。彼は同基地の背景や番組でこの問題に関して無責任な政治家を如何に追及したか、を紹介した。ジャーナリスト交流会で、田原氏はずっと日本側「座長」で、交流を通じて、彼の追及のお手並を拝見したことがあり、首相や官房長官を徹底的に追及する様子を想像することができた。

沖縄科学技術大学院大学の実験室を見学する会議出席者

当然のことながら、この複雑な琉球列島が絶えず国際化しているもう一つの側面もわれわれの視野に入ってきた。緑の山と青い海に囲まれた沖縄科学技術大学院大学は全く新しい理念を打ち出し、政府の支援で建設された新しい産学研を一体化した「無国籍」の科学研究機関だ。ひとつの実験室を訪ねると、中国から来た博士号取得研究者と英国、韓国のパートナーが新世代の有機薄膜太陽電池の研究に真剣な面持ちで取り組んでいた。

われわれは雨の中、首里城を訪れ、200年余前まで、朝貢体制の下で数百年存在した琉球王国の昔日の栄耀栄華に思いを馳せた。大きな釣鐘の表面に刻まれた文字から「万国津梁」の出典を見つけた。今の沖縄は、まさに世界をつなぐ懸け橋になろうとしているのだ。

 

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