王焱=文 賈秋雅=写真
2013年1月4日、私は人民中国雑誌社東京支局の賈秋雅支局長と共に宮城県仙台市を目指して北に向かった。
仙台と聞くと、多くの中国人は親近感を覚える。魯迅はかつて自身の作である『藤野先生』の中で、「仙台は市ではあるが、大きくない。冬はひどく寒かった。……学校が授業料を免除してくれたばかりでなく、2、3の職員は、私のために食事や住居の世話までしてくれた。(竹内好・訳)」と記している。仙台の冬は寒くて厳しいが人々の心は温かいという印象を中国人は抱いている。
2006年から2009年まで、私は仙台にある東北大学で修士課程を専攻していたので、ここには大切な思い出が詰まっており、懐かしいこの街に戻ってくる夢をよく見た。約3年ぶりに訪れる私の第二の故郷だ。
車で仙台周辺にある名取市などの沿岸地域に立ち寄ったが、津波の爪痕が依然残っており、荒廃した住宅地に廃墟と化した老人ホームがぽつんとたたずんでいた。
しかし松島の風景を見たときには安堵した。海に浮かぶ島々に茂る松林の魅力は昔のままだった。
4日の晩、東北大学に到着した。震災発生後間もなくメールを通じて、研究室の先生と学生全員が無事だったことを知っていた。しかし、両手を広げた先生の爽やかな笑顔を見た時、ようやく私は胸をなで下ろした。
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震災後に撮影した写真を見せる東北大学国際文化研究科の勝山稔・助教授。多くの中国人留学生を指導している教師であり、また身元保証人でもある。震災後、教師たちはまず学生たちの安全を確認し、さまざまな方法で学生たちを援助した。一部の教師たちは帰国できない留学生たちを一時的に自宅で預かった |
仙台周辺には7000人もの中国人が住んでいる。彼らはどのように震災を乗り越えたのか? 震災からすでに2年が経過したが、彼らは被災地区の復興にどのように取り組んだのか?
今回の2日間の滞在では、先生や友人また宮城県日中友好協会の江幡氏、宮城県国際化協会の大村氏の尽力により、被災しながらも震災後の復興活動に取り組んでいる幾人もの中国人たちにインタビューすることができた。
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