櫻井毬子
(今度こそ、笑顔でさようならをしよう。)
そう心に決めていたのに、上海の空港で大学生訪中団としての7日間を共にした方々に、「再見!」と手を振ってくるっと背を向けた瞬間、こらえていた涙がどっと溢れてきた。中国――。そこは私にとって、日本に帰る時には思わず涙を流さずにはいられないほど魅力的で、「また行きたい」と思える場所だ。
この1年で私は3度中国に渡り、3度涙を流した。1度目は大連の友達の家から帰る時、大連周水子国際空港で。2度目はNPOのプログラムで内蒙古の草原に行った時、上海港から日本に帰る船の中で。3度目はこの夏、日中友好大学生訪中団の一員として北京、西安、杭州、上海の4都市をまわり、帰国の途につく上海浦東国際空港で――。3度の涙の成分を細かく分析することはできないが、異国の地で温かな交流ができた嬉しさと、お世話になった方々に充分なお返しができなかったことに対する後悔、もっと一緒にいたかったという寂しい気持ちが混ざり合った、熱い熱い涙であった。
昨年の夏、初めて大陸の土を踏んだ時からいまに至るまで、私がずっと心の中で温め続けている言葉がある。それは、「言葉が通じた嬉しさは一瞬で消えていくけれど、心が通じた嬉しさは一生消えずに残る」ということ。
もちろん、新しく覚えた表現をつかい、それが相手に伝わった瞬間や、中国語だけで会話が成立した時は、本当に嬉しいものだ。大学で中国文学を専攻する身としては、中国語は何としてでも話せるようになりたいし、通訳の方が正確に滑らかにお話している様子を見るたびに、ああ、私もあんなふうになれたらなという思いをつよくするのもまた確かではある。しかし言葉が通じなくても、ともすれば言葉が通じないからこそ、私たちは心を通わせることができる。そう確信した背景には、2度目の訪中の際に長距離列車で過ごした24時間の体験がある。
2013年9月9日夜7時過ぎ――。大学生を中心とする50人規模の団体で上海からフホホト(呼和浩特)へ向かう列車に乗車し、私は切符の番号を頼りに自分の寝台を探した。辿りついた寝台は皆とは少し離れたコンパートメントにあり、周りはすべて一般の中国人の乗客だった。比較的近くのコンパートメントにいた同じ班の大学院生が、まだ1年生の私がひとりになってしまうことを心配し席を換えようかと申し出てくれたが、私はむしろ中国人に囲まれた状況にわくわくしていた。日本にいる時、私は仲の良い中国人留学生たちの流暢な日本語能力に甘えてしまい、中国語の勉強をしたいと思いつつもつい日本語をつかってしまっていた。私は生まれて初めての、中国語しか通じないこの状況を楽しみたいと思った。
ふと顔を上げると、通路に立っていた背の高い男性と目が合った。彼がにこっと笑ったので、私も思わず微笑んだ。「どこから来たの?」。英語で訊かれたその質問に中国語で答えると、彼の目がパッと輝いた。「中国語、話せるの?」
それからは楊さんというその男性を中心に、同じコンパートメントの人たちと会話が弾んだ。不思議なことに、日本にいる時には自分から話すことの少ない私も、自分自身が驚くほど自然に話をすることができた。後で私たちのところに遊びに来た友人がいうことには、その時の私は日本語を話している時よりも明るく楽しそうに見えたという。きっと楊さんたちの優しさが私の心の中にあった不安や緊張をあっという間に溶かしてくれたのだろう。膝の上にはノートとペン。わからない言葉があればノートに書いてもらうと大体理解することができた。話をするうちに、楊さんたちは全員、内蒙古の検察官だということが分かった。一緒にトランプをしながら、「日本の検察官と中国の検察官はどういうところが違う?」とも訊かれたが、日本の検察官とトランプをしたことがない私には、その違いは説明できなかった。
そのうちに、私たちの盛り上がりを見た同じ班の友達がどんどん集まってきた。ほとんどが中国語を知らない大学生だったが、筆談で会話が成立し、意思疎通に成功するたびに歓声が上がり、笑顔が広がった。言葉はあくまで手段のひとつなんだな――。私は皆の笑顔に囲まれながらそう思った。同時に、これほどまでに皆が幸せそうなのは、本当は言葉が通じたからではなく、心が通じているからなのだと確信した。私はいまも、10近いの筆跡が入り乱れたその時のノートを大切に保管している。そしてそのノートをめくるたびに、体中が温もりで満たされるのを感じることができる。
私は今年20歳になり、法的に「大人」になる。これからは自分自身が中国との関わりを持ち続けていくことはもちろん、子供たちにも、自分の目で中国を見て、中国の人々と生の交流をする中で、心が通じる喜びを味わってもらえるよう頑張っていこうと思う。数か月前、児童館での運動会準備を手伝った際、オリンピックを模して各国の国旗を飾りたいという子供たちに、「どの国の国旗を描きたい?」と訊いたことがある。その時、「中国!」と言った子がいたのだが、周りの子に即座に「中国はいや!」と却下されてしまった。私が「どうして中国はいやなの?」と問うと、暫しの沈黙の後、何となくという答えが返ってきた。
何となくいや――。相手のことを知ろうとせず、知りもしないのに嫌悪する大人の態度が、まだ心が通じる嬉しさを知らない子供たちの可能性をつぶしているとしたら、何と悲しいことだろう。相手を知ろうとする努力を継続していくには大変な労力が必要であることは間違いない。しかしその努力なくして、心が通じた嬉しさというかけがえのない財産を得ることはできない。日本の子供たちの瞳に映る中国が、偏見や固定概念によって形成された鏡越しに見えるものではなく、まっさらな状態で瞳の中に飛び込んでくるようになれば、熱い涙を流せる交流がいまよりももっともっと多く生まれるのではないかと思う。
人民中国インターネット版2014年12月
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